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”GOLDEN☆BEST”by ネーネーズ
9月27日に続いて、さらに”黄金の花”問題ですが。
この問題に関連して、ネット上の知り合いの”にこさん”に、”真夜中のドライバー”なる歌の存在を指摘していただきました。そうでした、この歌の存在を早く思い出していれば、もっと上手い話の運びが出来たのに。
”真夜中のドライバー”は、”黄金の花”と同じく岡本=知名コンビが作り、ネーネーズが歌った曲で、島を遠く離れた都会で働く沖縄の青年を想う、その恋人の独白という形をとった唄です。
これも”黄金の花”と同趣向の”異郷で働く人に呼びかける唄”なのですが、この唄ならば納得できると私は思うのですね。”黄金の唄”に漂ううさんくささは感じ取れない。
歌詞を全文引用したいところなのですが、著作権関連を考えると安易にやっていいのかどうか分からず。とりあえず下のURLのブログの記事内に”真夜中のドライバー”の歌詞が全文、掲載されているので、ご覧ください。
↓
●真夜中のドライバー”の歌詞掲載ブログ
この歌詞のどこが”黄金の花”と違っているかといえばまず、唄の”語り手”が”人間の顔”をしているところ。
ここでは語り手は、さまざまな欠点もエゴも抱えているであろう、罪多き、つまりは寄る辺ない平凡な一個の人間として描かれている。
そんな彼女が故郷を遠く離れた都会で働く恋人の暮らしを案じてみせる。時には浮気をしていないかと疑いもする。
つまりは、この卑しき地上で精一杯の命の火を燈す、我々と同じ血が通う生き物として描かれている。
それに立脚するこの唄なら、こちらとしても自然にこの歌の世界に入って行き、共鳴することが可能です。
その一方、”黄金の花”の場合は。
語り手はいきなり”上から目線”です。どうやら”神の視点”で日本にやって来た海外からの労働者を見下ろしている。そして、やれ黄金の花はいつかか散るぞ、納豆は食ったか、などと彼らをまるで判断力もない子供のような扱いでこずき廻す。
何様なんでしょう、この語り手は?
ここは私の勝手な推測なんですが。
”真夜中のドライバー”と”黄金の花”の製作年月日等、私は知りません。が、ひょっとして”真夜中のドライバー”の唄としての完成度に、悪い表現ですが調子に乗った製作者の側がその延長線上に、「島唄の従来のテリトリーを越えて、インターナショナルな視点でものを言おう」なんて野心を起こし、大風呂敷を広げ過ぎた結果の、これは失敗作なんではないでしょうか。
似たような設定ではあるんですよね、”真夜中のドライバー”と”黄金の花”は。
まあこれ、私なりに”良いほうにとる”という作業をした結果の解釈なんですけどね。
そして始末が悪いことにこの唄”黄金の花”の、”いかにも優しげな表面上の言葉遣い”が、古来よりの日本人の感傷過多な心情にアピールしてしまった気配がある。
この唄が支持されている理由は、何のことはない、「世界の中心で愛を叫ぶ」とかのベタベタのメロドラマを好む我等が湿度過剰な気質、それゆえですよ。
国際問題どうのこうの、でもなければ拝金主義を論じているからでもない。
もし、たとえば拝金主義批判が共感を呼んでいるのだったら、この唄を支持している人たちが唄を聴いたその感想を、「ウルウルしてしまった」「つい涙ぐんでしまう」なんて言葉で表現するはずがない。「この唄は今日の拝金主義に抗議しているなあ」なんて感じて涙ぐむ人はあんまりいませんからね。
「可哀相な外国人労働者をおもいやるこの唄、なんて優しいの。そして、その唄を聴いて感動している私って、なんて優しいの」
これが、この唄を聴いて感動している人々の心のうちにある”感動”の正体でしょう。つまりは始末に終えない自己陶酔の共有。
だから、まあ言ってみれば”黄金の花”における外国人労働者の存在って、自慰行為における”ズリネタ”であるわけですね、酷い話だわ。いや、品のない言葉使いで恐縮なんですけどね。
この”自慰共有問題”については章を改めていずれきちんと論じてみたく思っておりますが。
ともあれ、以上のような構造になっているがゆえに私は、”黄金の花”なる唄が名曲扱いされる現実を”いかがなものか”と首をかしげずにはいられないのです。
たしかに、較べればおっしゃるように(かどうかはわかりませんけど)「黄金の花」の方は語り手の姿が見えにくい、しかし「上から目線」なのかなー、ファミリーというか家族的な、親しいからこそ(ちょっと前まで近い距離にいて、今は離れてしまっている人に対する言葉だから)なれなれしく、傍から見れば「上から」みたいな言い方になっているのであって、たとえば「病気のお金はありますか」なんて、それこそ身内に(せいぜい親族に)でなければ言えない、踏み込みすぎの発言ではないですか。見ず知らずの外国人労働者に「病気のお金あるのか」なんて言えますか? おれにはムリだー。そんな甘っちょろい覚悟で外国に働きになんか来ますかね。私が外国に働きに行ったなら、そんな言葉をかけられたら泣いちゃうと思うな…
「黄金の花」という歌は、語り手を抽象化することによって「ネーネーズが沖縄出身者を応援する歌」から「むかしイナカで親しかった人が都会に行って孤独にがんばってるのを応援する歌」と解釈できるまでに大きくなってると思うんですよ。だから他人がカバーできる。「真夜中のドライバー」のカバーは無理じゃないですか。それは語り手の本人性が「黄金の花」より限定されるからですよ。ネーネーズじゃなきゃ嘘になっちゃうんですよ。
とか思ったんですけど、どうでしょう。
「あなたの生まれたその国にどんな花が咲きますか」
というあたりに「外国人に向けて歌ってる」と思われたわけですね。
エートだからさっきの私のコメントも間違っていて、これは「田舎から都会に出てきた人が孤独にがんばってるのを都会に住む(よその)田舎出身者が応援する歌」なんでしょうかね。沖縄はけっこう本土と違うと。方言も植生も外国ぐらい違うと。
あと抽象化うんぬんの話は同じです。だからおれたち地方出身者はこの歌で泣けるのではないかと。ネーネーズに「ふるさと」と言われたら自分の田舎を思い出すのではないかと。
書き込み、ありがとうございます。この問題は、なかなか分かり合えないみたいなんで、難しいんですが・・・
まず私は”黄金の花”は、外国人労働者向けの唄と確信しています。そうとしか、私にはとれない。
で、ですね、あの唄を支持できないのは、すでに書きましたが、「真夜中のタクシー」みたいに語り手に人間性が感じられないから。リアリティが感じられない作り物の人間がきれい事を言っているだけ、そしてそんな自分に酔っているだけ、としか感じられないんです。
私も「地方から東京に働きに行った者」の経験はありますが、その時、”黄金の花”みたいな事を誰かに言われたら、逆に怒るでしょうね。「俺の始末は俺がつける。ほっといてくれ!」と。「同情するなら金をくれ!」って奴ですよ。
まあでも、これは話し合って合意に至ることの、なかなか難しい問題かと思います。気長に考えてみるべきかと。
あっとそれから、「真夜中のドライバー」をネーネーズ以外がカバーすることも可能と思いますよ。女性の立場の歌を男が歌ったり、その逆とかありますし、どこの組員でもない歌手がヤクザの歌を歌ったり、おそらく傷害事件なんか起こしていないはずの北原ミレイが「懺悔の値打ちもない」を歌ったり、江戸時代の人間でもない舟木一夫が”銭形平次”のテーマを歌ったり出来るんだから。歌の持ってる虚構への寛容性ってのは、結構あると思います。