ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ウランバン批判

2007-03-07 04:48:34 | その他の日本の音楽

 ウランバン DX : 初代桜川唯丸 with スピリチュアル・ユニティ

 おおむね、皆のこの十数年ぶりで再発された作品への評価は好意的なもののようで、だからなかなか当方の感想が述べにくいのだが。いや、だからこそ書かねばならんのだろうと。
 河内音頭などとも同系列の仏教系語り物ダンスミュージックである江州音頭の大物、桜川唯丸を主人公に、打ち込みやシンセなどを導入し、新しい世界を展開して見せた作品である。発売当時もワールドミュージック好きの間で評判を呼んだものだった。

 ワールドミュージックがまだ耳新しい言葉だった頃には、当方もこのような音楽を、「おお、ミクスチュア感覚!音楽の新しい地平を切り開く試み!」などと素直に感動していたものだが。自分なりのワールドミュージック観が出来上がるにつれ、このような作品に違和感を覚えるようになっていったのだった。
 なんというのかなあ。なんか無理やり作り上げているって不自然な感触に納得できないというか。聴いていて、どうしても必要とは思えなくなって来るのだ、その”打ち込みやシンセ”の音が。

 また、このアルバムには”ブンガワン・ソロ”などというインドネシアの歌が挿入されているが、そのような歌が音頭の世界で普通に歌われているとも思えず。これも無理やりのワールドミュージックのイメージ作りのための演出、と思い始めるとその歌の存在が不自然でたまらなくなり、何でこんなわざとらしい事をするのかと嫌悪感しか感じられなくなってしまう。

 主人公の唯丸氏が、この音に納得していたかどうかは知らない。とりあえず、乗せられればその気になってしまうのは誰にでもあることであるし。
 ともかく当方、今ではこの音に接するたび、「江州音頭という音楽自体がそのままで十分エキサイティングであるのに、何を無理やり打ち込み音を導入しなければならないのか。よその世界から来たものが”現地”の音楽を安易にいじるのはやめろよ」と、だんだん凶眼になって行く心境であるのだ。

 それはまあ、世間になじみのない音楽を外部の人々に聴いてもらうためにはそのような工夫も必要と理解しないわけではないのだが。のだが、それをして”××音楽の新しい地平を切り開く”とか言い出してもらっては困るのである。それはあくまで一時的な措置であり、入門用のその音のむこうには、自然な形の音楽が控えていてもらわねば。大事なのはあくまでもそちらの音楽だ、という認識がなければ。

 ともかく、”お洒落なロック屋”が自分勝手な美学に元ずいていじり回した”現地の音楽”を押し付けられるのは、もう御免だ。
 今回のこの作品のケースは日本国内の出来事であるが、欧米のプロデューサーがアジア・アフリカなど各方面の音楽に赴き勝手な事をしているのに出会うと、新植民地主義などという剣呑な言葉も引きずり出したくなって来るのだが、間違っていますかね、ええ?

 ここで、たとえば当方が昨年のベスト1アルバムに選出した”LA NOUVELLE GENERATION DU REGGADA ”など聴いてみると、実に爽快な気分になってくる。収められているのはモロッコの祝祭音楽の”新しい地平”なのだが、それはあくまでも現地の人々の美学に元ずくもの。欧米のプロデューサーの感性では発想し得ない”奇矯な試み”が音の中に溢れ返っている。

 たとえばボコーダーを使ってのイスラム風メリスマのかかったボーカルの演出などという無茶なこと、どんな奴が思いつくのか。ともかく、欧米の新しい音楽を真面目にお勉強した者の仕業ではあるまい。土着の音を、いかに”ニューヨークの最新の音楽流行”と折り合いをつけるかにただただ腐心するのが音楽プロデューサーの仕事と理解している人物では出来ない発想。その展開が嬉しいのである。楽しいのである。ザマミロなのである。

 ああ、だから、”新しい音作り”を当方もすべて否定するものではない。江州音頭が歌われている地元の若者かなんかが、彼独自の美学で電気楽器を操作した挙句に出来上がってしまった、都会からやって来たおしゃれな音楽プロデューサーが一聴、顔をしかめるような暴挙だったらいつでも歓迎したいと思うのである。

 なんか、訳の分からない話をしているかなあ。ともかくよその音楽を自分の都合で弄り回して得意になるのはやめてくれ。という話なんだけど。


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