ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

遥かなる誤爆王に寄せて(平岡正明のDJ寄席・平岡正明著・愛育社)

2010-09-29 03:26:53 | 書評、映画等の批評
 この本をいつ買ったのかあまり記憶がないのだが、平岡の訃報を聞いてからしばらくしてからであったのは確かだ。ああ、こんな本も出していたのか、と特に感慨もなく思い、それでもどんなことが書いてあるのか知りたいと言う気まぐれを出して本を買い込み、そしてそのまま未読本を突っ込んだ段ボールの中に忘れていたのだった。さっき、ふと気まぐれを起こして読んでみたのだが。まあ、私なりの何周忌かの法要代わりといったところかもしれない。

 彼の本をはじめて読んだのは十代の終わりころだったろうか。「この人物は何者だろう?一応ジャズ評論家らしき看板を掲げているのだが・・・?」何がなにやら分からなかったが、というか分からないゆえ面白く思えて読み続けた)
 悪巧みやら革命やら。レゲにサンバにタンゴに美空ひばり。談論は風発する。河内音頭に空手に後年は落語や新内や横浜野毛への思い入れ。ともかく、あちこちから見つけてきたガジェットの数々を獲物として振り回し、世界にケンカを売りまくる無茶振りがたまらなく快感で、たちまち愛読者となって彼の著作を追いかけた。

 彼の思想等に興味を持った事はなかった。ただその怒涛の暴言、嵐の独断が奔流となって暴れまわる、その文章のパワーと速度に身を浸しているのが快感だった。時折かます、思い込みによる誤爆さえも一つの愛嬌ある決まり芸として、愛することが出来た。
 山下洋輔たちと”冷やし中華同盟”など作って空理空論の乱打戦を行ったあたりが彼のもっとも華やかだった時代か。いや、その少し前に平岡は、山口百恵を菩薩に喩えた本で柄にもないベストセラーをものにしていたのだったか。

 皮肉なもので。そのバカ騒ぎが一段落するころに、私は彼の本を追いかけるのをやめている。なんとも説明不能なのだが、彼の発する波長と自分の内にある思いのリズムとが食い違うようになって来ていたのだ。時の流れの中で彼も変わったし私も変わっていった。
 それから何年かが経ち。彼の姿を久しぶりに見たとき、彼はジャズ喫茶の椅子に座り、テレビカメラに向って独白をしていた。
 「ベルリンの壁の崩壊時も、自分は関係なく過ごした。完璧なる鎖国である。それが証拠に自分は、こうしてジャズ喫茶の中で喧騒のジャズに浸るだけで、外の世界の存在が意識されることはない」
 そんな風に彼は自閉を語っていた。

 彼のような人でもやはりサヨクはサヨク、ソ連が崩壊し、赤旗の側に”負け”が宣告されたのはショックだったのかな、などとずいぶん意外に思えたものだった。
 それからさらに歳月は流れ、私は彼の訃報を聞く。まだ60代の早過ぎる死だったが、私には感傷はなかった。もう彼は私の思い出の中ではとうに片の付いてしまった人だったから。ひどい言い方ではある。

 そしてこの本の書評。のようなもの。
 これは、平岡がジャズ喫茶を借りきって気ままにレコードをかけながら彼の音楽論を集まった客を前に吹きまくると言う、ようするに本でやっていることのライブ版の宴の文字起しである。とりあえずレコードを廻して喋っているので”DJ”の名を冠せられてはいるが。
 読んでみると、やはりあまり迫力は感じられない。昔の話の蒸し返しも多いし、彼の突きつけてくる問題意識が、もう時代とずれてしまっているような気がする。そんなうら寂しさを感じた。

 その一方、今回の出版の企画には。この”DJ”なる一語にひっかけて、平岡を”ヒップホップ”のフィールドに囲い込もうとする若者の一群が絡んでいるようだ。
 今日の黒人文化の話題などを盛んに持ち出して平岡を焚きつける彼らは・・・「いやあ、ヒップホップ文化には俺も前から興味を持っていたんだよ。俺も真似してラップやっちゃおうかなあ」とか平岡に言わせたかったのだろうか。自分たちの”ムーブメント”に平岡のお墨付きでも欲しかったのだろうか?

 平岡は、そんな若者たちの思惑に対し、この催しを実行して彼を持ち上げてくれた若者たちの顔を立てて、一応話に乗るようなそぶりを見せつつ、が、いつもの平岡ワールドを展開して見せるだけである。そっぽを向くでもなし、安易に同調して見せるでもなし。
 いいぞいいぞ、平岡、などと思うのだが、いや、そのようにして若者たちを片手でひねって捨てたのか、それとのその頃の平岡には、そんな反応しか出来なかったのか。それは分からない。

 そして私は。読み終えたこの本を、ブックオフ行きの段ボール箱の中に押し込んだのだった。