”Sulla terra sulla luna”by Teresa De Sio
ナポリの民謡界の女王とでも言うんでしょうか、Teresa De Sioの初期のアルバムを集めた6枚組ボックスが手に入ったので、これら作品群を改めて聴きなおしてみようと思う。
テレーザ・デ・シオの名に多くの人がはじめて接したのは、あの元PFMのメンバーだったマウロ・パガーニのソロアルバム、我が国では「地中海の伝説」なる邦題で知られているあのアルバムへの客演によってでしょうな。
あそこで、パガーニの奏でるブズーキの爪弾きに乗せて、「数千年前の情念、地中海の昼下がりに蘇る」みたいな、けだるくも神秘的なナポリ方言によってテレーザの歌う、蒼古のメロディがたゆたう場面は、忘れがたい一幕だった。
それをきっかけとして私は、ナポリ民謡復興ユニット、”NCCP (Nuova Compagnia Di Canto Popolare) ”などを聴き始め、そのフェリーニの映画みたいな、というか極彩色の泥絵の具を塗りたくったみたいな南イタリアの濃厚な民謡世界に夢中になったりもしたのだった。
そんな次第だったから、テレーザが1980年に世に問うたこの初のソロアルバム(厳密には、この何年か前に小レーベルから一枚出しているようだが)、”Sulla terra sulla luna”を私は、まさに胸をときめかせて手に取ったものだった。あのイスラム文明とキリスト教文明の激突する地中海音楽の大冒険が心行くまで楽しめるのだろうか、と。
が。このアルバムは、NCCPの頃のように民族楽器がメインに音作りのされた、こちらの期待したようなオドロオドロの音楽絵巻ではなかった。
レコードに針を置き聴こえて来たのは、明るい音色のフォークギターが鳴り渡る爽やかなサウンドだったのだ。なんだこれは。こんな風通しの良い音楽ではない、私の聴きたかったのは。私は拍子抜けしてしまい、何度か聴き返したがその音に納得が出来ず、ついにはアルバムをレコード棚にしまいこみ、そして何かの機会に売り払ってしまったのだった。
今、それから気が付かないうちに流れ去っていたとんでもない量の時間をはさみ、私はこのアルバムと再開を果たした。レコード盤はCDへと姿を変えてしまっているが。
しかし、こうして余計な期待を忘れて聴いてみれば、これはこれでなかなか快い音楽じゃないか。サウンドの中央でジャズっぽいフレーズで唸るベースがあり、その周りでアメリカン・フォークっぽいテクニックを駆使して跳ね回るアコースティック・ギターのプレイがある。
そんなサウンドに取り巻かれたテレーザの歌声は、なんとも湯上りの爽やかさというか身軽さで、ナポリの民衆の喜怒哀楽を歌っているのだった。うん、ずいぶん新鮮な感触で、これはこれでいいんじゃないか。
余計な先入観など持って分かったつもりで音楽を聴いたら損するぞ、という実例だろうか、これは。もっとも、くだらない思い込みにこだわり、変な音楽の聴き方をしてしまうのも、青少年の頃の特権かも知れないよなあ、などとつまんない事を呟きながら私は、その昔馴染みのような新しい知り合いのような盤を聴き進めて行くのだった。
ナポリの民謡界の女王とでも言うんでしょうか、Teresa De Sioの初期のアルバムを集めた6枚組ボックスが手に入ったので、これら作品群を改めて聴きなおしてみようと思う。
テレーザ・デ・シオの名に多くの人がはじめて接したのは、あの元PFMのメンバーだったマウロ・パガーニのソロアルバム、我が国では「地中海の伝説」なる邦題で知られているあのアルバムへの客演によってでしょうな。
あそこで、パガーニの奏でるブズーキの爪弾きに乗せて、「数千年前の情念、地中海の昼下がりに蘇る」みたいな、けだるくも神秘的なナポリ方言によってテレーザの歌う、蒼古のメロディがたゆたう場面は、忘れがたい一幕だった。
それをきっかけとして私は、ナポリ民謡復興ユニット、”NCCP (Nuova Compagnia Di Canto Popolare) ”などを聴き始め、そのフェリーニの映画みたいな、というか極彩色の泥絵の具を塗りたくったみたいな南イタリアの濃厚な民謡世界に夢中になったりもしたのだった。
そんな次第だったから、テレーザが1980年に世に問うたこの初のソロアルバム(厳密には、この何年か前に小レーベルから一枚出しているようだが)、”Sulla terra sulla luna”を私は、まさに胸をときめかせて手に取ったものだった。あのイスラム文明とキリスト教文明の激突する地中海音楽の大冒険が心行くまで楽しめるのだろうか、と。
が。このアルバムは、NCCPの頃のように民族楽器がメインに音作りのされた、こちらの期待したようなオドロオドロの音楽絵巻ではなかった。
レコードに針を置き聴こえて来たのは、明るい音色のフォークギターが鳴り渡る爽やかなサウンドだったのだ。なんだこれは。こんな風通しの良い音楽ではない、私の聴きたかったのは。私は拍子抜けしてしまい、何度か聴き返したがその音に納得が出来ず、ついにはアルバムをレコード棚にしまいこみ、そして何かの機会に売り払ってしまったのだった。
今、それから気が付かないうちに流れ去っていたとんでもない量の時間をはさみ、私はこのアルバムと再開を果たした。レコード盤はCDへと姿を変えてしまっているが。
しかし、こうして余計な期待を忘れて聴いてみれば、これはこれでなかなか快い音楽じゃないか。サウンドの中央でジャズっぽいフレーズで唸るベースがあり、その周りでアメリカン・フォークっぽいテクニックを駆使して跳ね回るアコースティック・ギターのプレイがある。
そんなサウンドに取り巻かれたテレーザの歌声は、なんとも湯上りの爽やかさというか身軽さで、ナポリの民衆の喜怒哀楽を歌っているのだった。うん、ずいぶん新鮮な感触で、これはこれでいいんじゃないか。
余計な先入観など持って分かったつもりで音楽を聴いたら損するぞ、という実例だろうか、これは。もっとも、くだらない思い込みにこだわり、変な音楽の聴き方をしてしまうのも、青少年の頃の特権かも知れないよなあ、などとつまんない事を呟きながら私は、その昔馴染みのような新しい知り合いのような盤を聴き進めて行くのだった。