図書館で見つけたこの写真集、もう3週間くらいずっと手元にあります。
画家のジョージア・オキーフが、愛してやまなかった「我が家」。
ニューメキシコにある、日干しレンガでできたその家の内部と、それを取り巻く自然と、そこに暮らす人の写真が収められています。
『オキーフの家』
マイロン・ウッド 写真
クリスティン・テイラー・パッテン 文
江国香織 訳
モノクロで撮られた写真は、ほんとうにどれも素晴らしいものばかり。
「ミス・オキーフのパレット」
「庭師の エスティベン・スアソ」 ・・・・
ミス・オキーフがこの家を買う決め手となった、黒い扉。と、説明がついている「幻想的に降る雪」というタイトルの写真‥などなど。
本の冒頭で、写真家のマイロン・ウッドは、こう書いています。
ここにあるのは、ジョージア・オキーフの家の写真です。30年以上にわたる彼女の存在のしるしが、随所に刻まれています。この住まいにおける彼女の暮らしぶりは“自然体”を重視したもので、しかも非常に一貫しているため、彼女が作品を通して表現しようとしたことを、おそらく作品以上にくっきりと、純粋なかたちで、住まいそのものが表しています。彼女の人生同様、彼女の住まいにも、虚飾は一切ありません。‥(後略)
意図せずとも、作品中に、自分自身が投影されていくように。
あるいは、それまでどう生きてきたかが、その人の顔に陰影や優しさをもたらす、しわとなって現われてくるように。
人が愛し、人が慈しんできた道具や、物や、衣服や、器や、暮らしの場は、その人以外の物にはなりえず、その人そのものを意味するようになっていきます。
人と、物との関係の、しあわせな最終型。
いつの日か、私もそんなふうな関係を築ける人でありたいという思いが、胸を満たします。
オキーフの描く赤い花からは、燃え上がる炎のような情熱が。(それは描くことに対しての)
オキーフの描く白い花から、熾火のような静かで強固な情熱(それは生そのものへの確かな思い)が、私に伝わり、私を励まし、遠くへと導いてくれるような気さえします。
情熱を持って生きることの大切さ。
それでは。
生きることを、生きたいという気持ちを、生きていく情熱を、
病魔に阻まれてしまったらどうしたらいいのでしょう。
がんばって生きていたって、たどり着く先は、
同じひとつの場所なのではないかと思った時、
生きていくことに何か意味があるのでしょうか。
親しかった人が逝ってしまった日、「オキーフの家」の中の
1枚の写真を思い出しました。
庭師のエスティベンが暖炉に積んだ薪の写真です。
火をつけ、火がまわっていけば、その薪は大きく崩れ、
最後には燃え尽きてしまうだけなのに、
それはそれは美しく積まれているのです。
「それ自体が美を備えている」
そう写真家は書いてます。
効率よく燃えていくために、もしかしたら
その積み方は必然なのかもしれませんが。
そうでなかったとしても、その庭師は
美しく薪を積んでいったにちがいないのです。
自分のために、ミス・オキーフのために。
そしてたぶん、薪のために、暖炉のために。
その空間のために。
生きていくということは、そういうことなのだと思いました。
いつかは燃え尽きてしまう薪を
美しく積み重ねること。