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my favorite things

絵本の話を中心に、好きなもの、想うことなど。

いつも胸の中に

2010-08-28 23:18:51 | 好きな絵本
何かを思い描いたり、誰かのことを想ったり、遠い場所を夢みたりするのは
頭の中での作業だと、理屈では分かっていても、重ねた両手は自然に胸の前で
組まれるし、ずきんと鳴ったり、きゅんとするのも胸の内側ではないですか?


この本。
そっと覚えて、いつでも自分の「内側」で、繰り返し唱えた短い詩が、
安野さんの美しい挿絵とともに、50篇も入っています。
ソナチネの木
  岸田 衿子  作    安野 光雅  絵


詩っていうか、ひとりごとみたいな短い文は、すべてがたったの4行でできていますが、
一旦自分の中に入ってくると、それはどこまでもどこまでも広がっていく感じです。

たとえばこんなふう。

    わたしはえのぐをといた
    昼をとっておくために
    窓をみがいた
    夜をとっておくために

ソナチネの木。
タイトルからして、すごく素敵。

    小鳥が一つずつ
    音をくわえて とまった木
    その木を
    ソナチネの木 という



rの14歳の誕生日に、と贈った本ですが、彼女の胸に届く日が来るまでは
(こういう詩が響くようになるのは、好きな人がいてこそですから)
私が何度も何度もページを繰るでしょう。



*今年もまた誕生日がやってきました。
奇数の年より、なぜか偶数の年(年齢)になるほうが、好きだなと思います。
今朝、昇る朝日をみたのです。
12年前の、8月28日を覚えているように、12年後も、今日のことを思い出すことが
できるでしょうか。

強い日差し、夏の庭、友とのおしゃべり、家族の祝福‥ソナチネの木。





300号

2010-02-07 17:37:16 | 好きな絵本
福音館書店の月刊誌のひとつ 「たくさんのふしぎ」が、300号を
迎えたそうです。

その記念号は、ずばり『おかし』というタイトル。



記念号にふさわしく、なかがわりえこさんの文に、やまわきゆりこさんの絵です。

ゴールデンコンビが、おなじみの、とても心地よい雰囲気で、おかしってなんだろう?
に、丁寧にやさしく迫ります。

おかしはきびしい!  とか
おかしはたのしい! とか
おかしはやさしい! とか
おかしはこころのメッセンジャー! とか‥


「おはなしの絵本」として読んでもいいなあと、思いました。

生まれたての赤んぼうが、おかあさんのおっぱいだけから、しだいに
他のものも口にするようになり、初めてのおかしを食べるくだりでは、
懐かしさで、胸がいっぱいになりましたよ。

rが、初めて食べた「おかし」ってなんだったのだろう?と考えたけど、
はっきり思い出せません。でも、歯固めビスケットというのを、あげたときに
それがのどにつまって、ほんとに目が白黒なって‥すごく慌てて吐き出させた
ことがあったのは、よーく覚えています。

あと、お出かけするときに、いっつも、レーズンの入った小さいバターロールを
常備していたこととか‥。

それと、お菓子で忘れられないのは、姪っ子のAちゃんに、初めて、
太郎焼き(大判焼きみたいなもの)の皮を食べさせたときに、とてもうっとりした
顔をしたこと。彼女にとって、初めての至福の時だったかな・笑。




「たくさんのふしぎ」は、小学3年生くらいからを対象にした月刊誌ですが、
今回の『おかし』は、小さな子に読んであげても、一緒に楽しめる内容だと思います。


福音館のサイトでは、「たくさんのふしぎ」のバックナンバー全部
見ることができるようです。



【アメリカの61の風景】にさそわれて・3

2009-12-10 15:17:04 | 好きな絵本
オクラホマ州の西端にパンハンドルというところがあります。
(オクラホマ州は、地図で見ると、テキサス州の上に、ちょうど大きな
鍋がのっかっているように見え、その鍋の持ち手のようだから、
パン・ハンドルという名前なんですねーおもしろい)

そこは、ノー・マンズ・ランド(誰のものでもない土地)と
ずっとよばれてきたところで、長田さんが、いつかどうしても訪ねたかった
場所の一つ、だったそうです。


  何もない。何もなかった。どこまでも広い空があり、
  その空の下に、どこまでも広がってゆく大草原があり、
  どこまでもつづく草の上を、風が遠くまで渡っていった。



風が遠くまで渡っていった、で思いだした絵本は、『ジルベルトとかぜ』でした。
 『ジルベルトとかぜ
 マリー・ホール・エッツ作  たなべいすず訳


表紙で、帽子をおさえているのがジルベルト。
見開きも、中のページも、カーキ色の紙で、そこに〈風〉が
白い線で描かれています。


家の中に居たジルベルトは、かぜが とぐちで よんでいる のを聞き、
風船を持って遊びに飛び出します。

どのページでも、〈風〉はジルベルトをからかってばかり。
風船を木のてっぺんに持っていったり、せんたくばさみをふっとばして
干してある服を着ようとしたり‥。

中ほどで、ジルベルトと〈風〉がかけっこをする場面があって。
そこを読むと、長田さんの、何もない。何もなかった、から始まる文章を
思いだします。

   のはらのくさが のびていると、かぜと ぼくとは かけっこだ。
   かぜは さっさと ひとはしり。もどって、ぼくを おいかける。
   でも いっつも かぜが かつんだ。

   なぜって、かぜは くさのうえを はしっていけるのに、ぼくは
   じめんをふんで くさをかきわけて いくんだもの。





アメリカの61の風景


この書名は、ヘンリー・ジェイムスの紀行『アメリカの風景(The American Scene)と、
ボブ・ディランのアルバム『ハイウェイ61再び(Highway 61 Revisited)』に
由っていると、あとがきに書いてありました。

  ヘンリー・ジェイムスは旅について、「じぶん自身の感覚の掟にしたがうことだ」と言った。
  「どんな感じだい。じぶん自身だけということは」と、
ボブ・ディランはうたった。



ボブ・ディランは、また、こうも歌っています。

   ♪ The answer, my friend, is blowin' in the wind,
      The answer is blowin' in the wind.  

                 Blowin' In The Wind より





風が知ってるだけさ。




【アメリカの61の風景】にさそわれて・2

2009-12-09 11:14:50 | 好きな絵本
アメリカの61の風景』は、東から西へとつながっていきますが、前半で語られた
東海岸の街や、ニューヨークに関する章は、やはり心が躍ります。

「ストリート、リヴィングネス」というタイトルがついている章でも、ニューヨークのことが
こんな風に書かれていました。

  ニューヨークはとりわけ、そんなふうに平凡な言葉がふいに
  粒だってくる、そういう印象を残す街だと思う。街である以上に
  街が辞書であるような街。この言葉のこういう意味を、このとき
  この街で、こういうふうに感じとったという記憶が際立ってのこる街。




この同じ章に、とても惹かれた箇所がありました。
「ストリート」というごく平凡な言葉が、どれほどの深さを持つ言葉かについて、
黒人の女性作家、ヴァージニア・ハミルトンが書いていたことが、
ニューヨークの古書店に居たときに、長田さんの心に浮かんできた、というくだりです。

  通り。界隈。道。地域。街。ストリートというアメリカの言葉は、
  何ともいえないような独特のニュアンスをもつけれども、とりわけ
  北米の黒人たちにとっては、ストリートは特別の意味のある
  言葉だった。ハミルトンによれば、長い奴隷時代に、街も通りも
  ない農園の奴隷小屋にすまねばならなかった黒人たちは、
  その奴隷小屋の並びをストリートとよんでいた。ストリートでは
  日が暮れると、どんどん火を焚いて、でっかい鍋で料理をつくり、
  みんながその鍋から食事をし、静かに話をした。ストリートというのは
  共同生活のことで、北米の黒人たちは、みんなストリート育ちだったのだ、と。



この文を読んだあとで、私の心に浮かんだのは、長田弘さんが訳した
この絵本でした。


 なぜ戦争はよくないか
 アリス・ウォーカー文 ステファーノ・ヴィタール絵 長田弘 訳


たまたま同じ時に図書館から借りてきたせいと、作者のアリス・ウォーカーが
アメリカに住む、黒人の女性作家だから、(私の中では)繋がったのでしょう。


『なぜ戦争はよくないか』  原題は、Why War Is Never a Good Idea

2001年9月11日のテロ攻撃に対して、アメリカがおこなった報復の現実を知り、
衝撃を受けたウォーカーが書いた本に、「タイム」や「ニューヨーカー」のイラストや
本の装丁などで、幅広い活躍しているヴィタールが、力強い絵をつけた、と説明されていました。


話は、こんなふうに始まります。

  戦争はなんでもできる
  どんな国の言葉も話すことができる
  でもカエルたちに
  何をどう話せばいいか
  戦争はなんにもわかっていないのよ


〈戦争〉を擬人化して、やさしい言葉で語られる分、ページを繰っていくたびに
ヒタヒタと何かが近づき、じわじわとその何かが気持ちに中に満ちてきます。

絵は、アジアのどこかの、長閑な農村の風景、大写しになる田んぼのカエル。
そして、カエルを押しつぶそうと、古い大きなタイヤが、開かれたページの
右上から、圧倒的な強さでやってきます。

タイヤは描かれた絵ではなく、本物の写真‥錆びついた釘や、嫌な匂いを放ちながら
固まってしまったにちがいないオイルや、何かざらざらしたものの写真が、
鮮やかな絵にコラージュされて、どのページでも、〈戦争〉の不気味さを表しています。

アジアの農村風景からヨーロッパの田園風景、そしてそこはアフリカに違いないと
思わせる衣装を身に付けた女のひと‥そう世界中のどこにでも
〈戦争〉はやってくるのです。


アリス・ウォーカーは、警告しています。
〈戦争〉がすべてを食べつくしてしまったあとに、この大地に何が残り、
いったん〈戦争〉を受け入れてしまったら、その残ったものをより好みすることなど
私たちにはできやしないのだということを。


もしかして。

〈戦争〉は、〈差別〉や、その他、心の弱いところにするすると入りこんでくる
何かに、置き換えることができるのではないかなと、思いました。

人の気持ちや心は、とてもナイーブだけれど、一度何かに取りつかれてしまうと
その殻をはずすことは難しく、柔軟だったはずの、一番深いところにしまって
あった愛や勇気も、固まったまま、取り出すことが難しくなってしまうのです。
それが自分自身のものであったとしても。

ヒタヒタとじわじわと、近づいてくる〈何か〉には、心の目を大きく見開いて
いなければなりません。






【アメリカの61の風景】にさそわれて・1

2009-12-08 11:12:12 | 好きな絵本
長田弘さんの旅した『アメリカの61の風景』。
その最初は、ミシシッピ川の源流からはじまります。

そして、こんな文章。

  人生はこんがらかったものではなく、もっとずっと
  単純であっていいと思う。決まった時間の外に、
  じぶんをもってでる。
  決まった時間の外にもう一つの時間があり、その
  もうひとつの時間のなかに、忘れられた人生の
  単純さがある。旅に目的はない。ただどこかへゆく。
  どこかー時間が無でみたされていて、神々がほほえんで
  いると感じられるような、どこか。


読み返していると、またトリハダがたってくるようです。

特に、決まった時間の外に、じぶんをもってでる、というところ‥

ここを何度も噛みしめてしていたら、この絵本のことを思い出したんです。

 ラストリゾート
 パトリック・ルイス文 ロベルト・インノチェンティ絵 青山南 訳



ラスト・リゾートは、入口に「迷いびとのかた!宿帳にお名前を!」
叫ぶ鳥がいる、こころにぽっかりあながあいてしまったひとたちの
ホテルです。

主人公の男は、想像力をなくしてしまった絵描き。
彼は失った「こころの目」を求めて、愛車のルノーに乗り、出かけます。
ドコダカダレニモワカラナイトコロへ

そのホテルに泊まっている人たちは変わった人ばかりですが、とても
有名な物語に出てくる、あの男や、あの女性では、と思いながら読むと、
2倍、いや3倍くらい楽しむことができる、おとなの絵本です。



想像力を失った絵描きも、このホテルに滞在し、「決まった時間の外へ持ってでた」
自分と、「無でみたされた」時間を過ごすことで、新しい自分を見出したのではないでしょうか。



アメリカの61の風景』の、別のページには、こんな言葉もありました。

   旅は到着することとはちがう。
   旅は、旅をしているという感覚のよろこびなのだ。



そうなのですねー旅は、感覚のよろこび=感覚をよろこばせることなのですね。
もうずいぶん長い間、旅をしていない気がします。
そもそも、私は、旅をしたことがあったのでしょうか。



ここではないどこかへ。
Anywhere,but not here.

本を、読んでいる間は、いつでも〈旅〉している、と言えるのですが‥




くまとクッキー

2009-11-10 16:49:19 | 好きな絵本
誰でもきっと、一度は読んだことや、お話を聴いたことが
あるでしょうね。

うちに、この絵本はなかったけれど、とても懐かしく思い出せるのは
たぶん幼稚園で読んでもらったからかなあと思っています。

3びきのくま
 トルストイ作 バスネツォフ絵 おがさわらとよき訳


しばらくぶりに読んでみたくなったのは、ことり文庫さんで
今開かれている、布とお菓子の、ものがたり展のせいなんです。
ことり文庫さんのサイトの説明文を載せておきますね。
その方が、どんな内容かよくわかると思うので。
(あとこちらこちらでも、店内の飾り付けやクッキーが並んでいる様子がわかります)


昔読んだ物語が、こころの中で少しずつ育ち、それぞれのかたちに。

いろいろの素材から、動物たちを作りだす
モビール作家のhappa doさんと、
体にやさしい材料で、おいしいクッキーを丁寧に焼き上げる
焼き菓子工房n*cafeさんが、
絵本屋を舞台に、童話「さんびきのくま」「ブレーメンのおんがくたい」
「こびとのくつや」の世界を、つくりだします。




7日(土)にはスープカフェもあったんですよー
行きたかったな。

n*cafeのnaoさんが、このフェアのために作った3種類のクッキーを
ぜひぜひこの目で見たい!と思い‥7日にスープカフェに行った
買っておいてもらったのです。
14日には受け取れると思うので、すっごく楽しみ♪

本を開いて、こどもと一緒に声に出して読み、そのあとで、クッキー食べようね、と
なったら、なんてステキなことでしょう。
この形は、おかあさんクマだね、とか、こっちは女の子だよ、とか。

もうそれは叶わぬ夢なので(笑)、早速絵本だけは、声に出して読んでみました。

そしたら。
もうすっかり忘れていたのですが、おとうさんぐまは、ミハイル・イワノビッチ
おかあさんぐまは、ナスターシャ・ペトローブナ、そしてこどものくまは
ミシュートカっていう立派なお名前がついていたのですね。

読み返してよかった。

そして、もうひとつの発見は、おおきな くまは、じぶんの おわんを
てにとって、なかを のぞいたとおもうと、こわい こえで ほえました。

と書いてあったこと。

こわい こえで 言いました、ではなく、くまだから「吠えた」のですね。
おとうさんぐまだけじゃなくて、おかあさんぐまも ちゅうくらいの こえ で
ほえています。

とても新鮮に感じました。
  
ラストはどうなるのかなあとうろ覚えだったのが、はっきりして、これもよかったです。

ことり文庫さんのフェアは、11月30日までです。
(でも、クッキーはそんなに残っていない気がします)
クッキーがうちにやってきたら、今度は、ブレーメンの音楽隊と、
こびとのくつやも借りてこようかな。



おひめさまを変えた魔法

2009-09-10 17:12:02 | 好きな絵本
実際に素肌に触れるものと、比べることはおかしいのかもしれませんが、
この本を手にとって、1枚1枚ページをめくっていくよろこびは、
洗いたてのリネンのシーツに、横になったときと同じ種類のものでした。

  『みにくいおひめさま
  フィリス・マッギンリー 作 まさきるりこ 訳 なかがわそうや 絵


1968年に出版され、その後絶版になっていたものが、今年復刊されたのだそうです。
私は、まったくその経緯も、おはなしも知らず、ことり文庫さんの
9月のことり便の中から、この表紙絵にひかれて求めました。


いいなあと思った本や絵本を、すべて手元に置くことは、到底不可能だし、
持っていたからといって、それが必ずしも自分の心のラインナップに
沿っているとも言い難く、ですが。
そばにある、ということただそれだけで、頬に触るリネンの心地よさの
体感と等しいものが、時々は、ほんとうに「ある」のです、この本のように…


みにくいおひめさま 原題 The plain princess

何不自由なく暮らしいるお城のおひめさまは、誰よりも不細工で、
それは王さまの持っているいかなる力を使っても、どうすることもできません。
王さまは、最後の手段として、魔法を使えるものを募り、たったひとり
名乗りでた、ふつうのご婦人に、おひめさまを託します。
そのご婦人が、魔法を使える証しとして示したのは、美しい5人の娘の
写真でした。
王さまは、自分の娘もそんなふうに美しく変わることを祈りつつ、3か月×3
すなわち9か月の時間を与えたのでした…

丁寧な言葉で、丁寧に語られていくおはなしは、読んでいる人の気持ちをほぐし、
おさえた色使いの絵は、おはなしの成り行きを決して邪魔することなく、
ほぐれた気持ちをさらに遠くへ解き放してくれるかのようでした。

約束の9か月が過ぎ、おひめさまはどんなふうになったでしょう。
ご婦人の「魔法」のポイントは、「気づき」ということでした。


みにくいおひめさまを、美しいおひめさまに変えた「魔法」は、努力しだいで
私たちにも有効な「魔法」なのです。




ことり便には、毎月かわいいおまけが一緒についてきますよね。
 9月のは、視覚だけでなく嗅覚も刺激してくれるもので‥それが
 一層この本のステキさを、増してくれたのでした。





よろこび

2009-08-28 14:46:23 | 好きな絵本
おとなになってから、こどものときに読んだ本を見つけ出して
読むのもいいし、未読だったものを読むのもおもしろい。
逆に、まだこどもだと思われているけれど、背伸びして、おとなの本を
読むのだって、わるいことじゃない。
わからない言葉が並んでいたら、わからない「音」のまま記憶しておけばいい。

食べ物には旬があるけれど、本には、「ふさわしい年齢」なんてないのでは、
と思うときがあって。
けれど、出会うべくして出会った本、としか思えないような本があったり。
今、読んだからこそ心底共感できるような、そんなこともたまにはおきるなあと、
この絵本を前にして、思っています。


わたしは生きてるさくらんぼ
 デルモア・シュワルツ 作 バーバラ・クーニー 絵 しらいしともこ 訳


クーニーの描く絵はとても好きなので、何年も前から、この絵本のことも知っていました。
図書館で借りて読んでもみたけど、そのときは、何もひっかからず響いて来ず。

けれど、rの13歳の誕生日プレゼントの本は何にしよう、と考えていたときに、
ふとこの絵本のことを思い出しました。
(そういう意味ではちゃんと「ひっかかって」いたのですね)


  わたしは あかよ

  わたしは 金

  わたしは みどりよ

  わたしは 青なの

これらのページの絵の素晴らしいこと!

そして、最後の文章は … (クロッカスの絵が横に)

  わたしは いつも
       あたらしくなるのよ



私は、娘が12歳になったときも「特別な年齢」と思い、また13歳でも
同じように思ってしまって(来年も思うかも・笑)。

r自身は、私がこの絵本にこめた気持ちは、ほぼ絶対わからないだろうし、
手紙に書いてみたとしても、ふーんって感じなのはよくわかっているのですが。
でも、いつの日か、月の満ち欠けのように、一定の周期で、「あたらしいわたし」が
生まれていることを、素晴らしいことだと思うかもしれないので…。


娘の誕生日に贈っておきながら、実は、この本は私自身への
贈り物だったのだなあと、こっそり思っています。


    *         *         *


(前にも書いたことがありますが)8月28日は、生まれたてのrと一緒に
私が退院して、家に戻ってきた日なのです。

ほんとの誕生日も今日なのですが、それよりも、13年前のこの日から
3人で暮しはじめた日、と思ってしまうこの頃です。









どこか遠くの

2009-08-24 19:20:47 | 好きな絵本
久しぶりに「好きな絵本」のはなしです。

クルヨ・クルヨ』 荒井良二 作

1995年に白泉社から出た本に、描き下ろしのイラストを加えて
新たに、ポプラ文庫から出た、文庫版の絵本です。

絵本を、文庫にしてしまうのは、講談社文庫なんかでもあって、
実際私も、お手軽なので、『ポテトスープが大好きな猫』とかは
買ってしまいました。持ち歩けるし、と自分に言い訳(?)して。
でもね、でもやっぱり、「最初の大きさ」というか、ふさわしい紙面というか
画面はあるなあと思い、文庫版はねえ。。。派です。


が、しかし。

この『クルヨ・クルヨ』は、結構いいです。
近所の図書館で探したら、書庫の中に(書庫にシマワレテいました)、
95年に出た大きい絵本の『クルヨ・クルヨ』があったので、リクエストして
借りてきて、読み比べてみたのですが、ひょっとして、文庫版ありかも、と
この本に関しては思っています。
描き下ろしのイラストがいいせいもあるけど、いちばんは、この本が、
「どこか遠くの旅のはなし」、だからだと思います。

旅ならば、文庫はアリだし。
旅ならば、旅先からハガキも出したいし。


3つのはなしは、第1話 トーク・トーク 第2話 ダンダント 第3話 クルヨ・クルヨ

私は、最初のトーク・トークがいちばん好きかな。

  それから
  遠く遠くにいる きみに
  話しかけます。
 
  なんだか 近くに、
  きみが いるようです。

  トーク・トーク
  トーク・トーク

  トーク・トーク
  トーク・トーク



バスにのって』の雰囲気が好きな方には、特にお薦めです。

そして、もし誰かにプレゼントするなら、夏が始まる前にあげてください。
その理由は最後の文を読むと、わかります♪
(今年の夏はもうすぐ終わってしまいそうなので、来年の夏の前に、また読みたいと思います)






二本のアカシア・一対の物語

2009-06-02 16:20:41 | 好きな絵本
樹齢400年のアカシアが、パリには2本あるという。
(400年前といったら、フランス革命よりもさらに1世紀以上もむかし‥)

そのうちの1本があるパリの植物園に、画家のいせひでこさんが、足繫く通って
出来上がったのがこの絵本。

大きな木のような人
      いせひでこ 作



植物園の中にある研究室に通うわたしと、夏の間のパリ滞在中に
毎日そこを訪れていた女の子、さえらの交流と、植物が(あまりにも)
美しく描かれた絵本です。

1回目を読み終わってすぐに思ったのは、「大きな木のような人」とは誰のことなんだろう? 
誰を指しているのだろう?ということでした。

絵が好きな、いたずらっ子だったさえらに、植物をじっくり観る楽しみを教えた
わたし(植物学者)のことなのかもしれないと思いましたが、でもなんだかしっくりときませんでした。

人はみな心の中に、一本の木をもっている。

序盤に出てくるこの文章は、話全体のキーになっていると思うのですが、
大きな木のような人とは、その心の中の一本の木が育つ糧(土や水や空気のような)を
与えてくれた人、あるいは、種を植えてくれた人のことなのかとか、いろいろ思ってみたりもしました。


400歳のアカシアのもう1本の話は、『ルリユールおじさん』だと知っていたので、
今朝、久しぶりにその絵本を開き読んでみました。

大きな木のような人』がみどりの本だとしたら、『ルリユールおじさん』は青の絵本‥
ソフィーがきている服の色から、パリの建物、街角、アカシアの木まで、美しい青色です。

読んでみて、ソフィーにとっての大きな木のような人は、大切な植物の本に
彼女だけの表紙をつけて直してくれた「ルリユールおじさん」だということがわかったし、
ルリユールおじさんにとっての大きな木は、彼にルリユールの技術を教えてくれた
彼の父であることがわかりました。

いつでもスケッチブックを携えていたさえらにとっては、植物学者のわたしがそう
かもしれないし、これから彼女が出会う別の誰かかもしれません。
(私は、別の誰か‥絵描きさんとか‥のような気がしていますが)
植物学者のわたしにも、心の中の一本の木となる出会いが、かつてあったはずだし、
もっと言えば、作者である伊勢英子さんも、ご自分の心の中の木を見ながら
この話を描いていったのでは、と思います。


大人になったソフィーが、植物園で働いている姿を『大きな木の~』中に見つけたときは
ソフィーを知っている人ならだれでも、ああやっぱりと思い、再会できたことを
嬉しく思ったことでしょう。

さえらは、どうでしょう。さえらはどんな人に成長するでしょうね?

黒い服に赤いバッグが印象的なさえら(同じ音のフランス語では、あちこちという意味だそうです)、
ひまわりが好きで、絵を描くのが大好きなさえら、パリの植物園のあちこちにスケッチブックを
離さず、通い続けたさえらは、伊勢英子さんが、「小さくなって」絵本の中に
入りこんだ姿なのでは?と、私は思いました。(ちょっとコナン的ですが・笑)


パリにある2本のアカシアを描いた、2冊の絵本。
別々の物語のように見えて、一対のものがたりなのかもしれません。

別々の毎日を生きているように見えて、実は、見えない糸があらゆるところで
交差していたり、心の成長の糧を、知らない誰かから得ている私たちの人生みたいに。

ルリユールおじさん
    いせひでこ 作









運の神さま

2009-05-21 16:26:59 | 好きな絵本
近頃、毎日のように、『パワー』の中に出てきた神様のことを
思いだします。

運の神で、たしかエンニュと呼ばれていたと思うのですが、
本が手元にないので、確かめることができません。

その運の神はどんな方なのかというと‥
主人公のガヴィアがこんなふうに言っている箇所があります。

運の神は片方耳が聞こえないという。ぼくらが祈りを捧げるほうの耳だ。
運の神には、ぼくらの願いは聞こえない。
運の神に何がきこえているのか、運の神が何に耳を傾けるのか
それは誰も知らない〈中略〉

ぼくが知っているのは、祈ろうという気持ちになれないぐらい
落ちこんでいるとき、一切の希望を抱かず、何もあてにせず、
何の欲望ももたないとき、運の神は必ずぼくとともにいると
いうことだ。


「西のはて」の国は、とっても東洋的だなと思い、自分が小さい頃から
漠然と信じているような神さまと、とっても近い感じがします‥

運の神さま。
私がいつも、熱心にお願いごとをしているのは、右側の耳なんでしょうか?
そしてそれは「お休み」している側なのでしょうか?


       ‥     ‥     ‥


しかし、昨日図書館で、偶然こんな絵本を見つけると、それは偶然を
装った運の神が、気まぐれで、そっと棚に置いておいてくれたのでは、
なんて思ってしまいます。

きんいろのしか
    バングラデシュの昔話  アーメド ジャラール 案
    秋野 不矩 絵   石井 桃子
 再話


おすすめの棚が、「色にまつわる本」の特集でした。

初めてみた表紙でした。
シカの角があまりにも立派で、そして堂々としている姿に惹かれ手に取れば、
バングラデシュの昔話。アジア地域の昔話って、結構好きだし、文は石井桃子さん。
これは借りていって、ゆっくり読みたいと、鼻が効いたのでした。

お話しは、悪い王さまがいて、主人公が苦しめられて、それをまわりの動物と、
最後には金色の鹿が助けるという、昔話の王道パターン。(でもそれって、嫌いじゃないです)

何が素晴らしいって、描かれている絵がとても好き、と思いました。
秋野 不矩さんってどんな方なのでしょう?と早速検索してみたら、
なんと『
うらしまたろう』や『いっすんぼうし』の絵の方ではないですか。


でも、正直に言うと、この2冊の絵本は知っていましたが、絵について
とくに感想を持つほどじっくり読んだ(見た)ことがないのです。

経歴を読んでいたら、50代からインドに魅せられ、インドの材料を
使った新しい境地を開拓する とあったので、日本の昔話の絵を描くよりも
バングラデシュの話を描くほうが、ご自身も楽しかったりして、などと思ってしまいました。


浜松市に秋野不矩美術館があることも知りました。
それにしても、54歳のときに初めてインドの大学へ客員教授として
赴任して以来、インドにとどまらず、ネパール、アフガニスタン、カンボジア、アフリカにまで‥
すごいです。

そしてもひとつすごいといえば、文化勲章ほか数々の賞をお受けになっている
とても有名な方だったのですねー自分の無知が恥ずかしいです。

けれど、運の神さまのおかげで(?)、知らずにずっとこの先もいたかもしれない
素晴らしい画家をおひとり、【今】知ることができて、よかったです。

出会いはどこにころがっているかわからず、運の神さまは、聴こえないふりが
とても上手な方かもしれません。(あるいはすこしジャック・天野かも)








ブルーベリー色!!

2009-05-01 17:34:00 | 好きな絵本
気持ちのよい、5月の始まりの日が、もうすぐ、
気持ちのよい夕方の時間から、
夕暮れの始まりの時間へと移っていきます。

昨日も月は、三日月型で、下にあるカレンダーの月齢の絵よりも
すっきりしていました。きれいでした。


(久しぶりに!)好きな絵本の紹介です。

4月のことり便で選んだ『フローラのにわ
クリスティーナ・ディーグマンというスウェーデンの作家さんが、
初めて、絵と文の両方を手掛けた作品です。(訳はひしきあきこさんです)




すこし前から『ペーテルとペトラ』や『ちいさなふゆのほん』の絵が
気になっていたのですが、ディーグマンの絵本を買ったのは今回が初めて。

表紙の絵で、すでに〈好きな感じ〉でしたが、表紙を開いてみて‥
買ってよかったと確信しました。見返しが〈とっても好きな感じ〉なのです。

青く塗られた木の扉と、ブルーベリーのアーチと、ブルーベリー色の服を着た女の子。

とびらを あけると、くさや はなが
にっぱいの にわが あります。
にわの こみちを あるいていくと、
フローラの ちいさな いえが たっています。
にわには、おおきな きも 1ぽん はえています。

フローラはこんな素敵な家にひとりで住んでいます。
庭に咲く、たくさんの花の名前を知っているし、
仲良しの動物もたくさんいます。

歌をうたってくれたツグミへのお礼に、巣の中の卵を守るお留守番を
してあげたり、膝の上で眠ってしまった、マルハナバチをそっと
なでてあげたり、暑い日は、カエルに泳ぎを習ったり‥

植物や、動物にかこまれて暮らす、フローラのまわりは
いつも透明な光でキラキラしているのが、どのページからも伝わって
くるようです。

  ‥  ‥

ハラハラドキドキも、びっくりすることもなにも起こらないけれど、
本のページが終わりになるときには、始まったときよりも、
さらに、フローラの毎日はしあわせになっていて。
それを知った、本のこっち側にいる私たちも、にっこりした気持ちで
本を閉じることができるのです。

フローラの庭は、1年中、今日みたいな5月なんじゃないかな。





今日という日

2009-03-31 19:35:54 | 好きな絵本
やはり。
この本のことは、今日のうちに、3月31日のうちに
書いておかなければ、と思いました。

先週の火曜日、24日の卒業式に、私からrへ贈った絵本です。

きょうというひ
      荒井良二 作


季節的にはちょっとはずれているけれど、
小学校の卒業式、という節目にふさわしいように、
思えてなりませんでした。

3月8日に行った展覧会で原画を見たのが影響していたの
かもしれません。
rが、帰りがけに選んだポストカードも、この絵本のものだったし。

今日という日は、どんな日もたった一度。
だからハレの日よりも、なんでもない普通の日々がほんとは
大切なんだと思っています。

それでも、やっぱり。
ここ一番の「今日」をいつまでも覚えていてほしい‥


    あたらしい セーターを あみました
   きょうというひに きる ために

   あたらしい ぼうしと マフラーを あみました
   きょうというひに にあう ように


私が、この絵本の中でいちばん好きな文章です。











記念って?

2009-02-25 11:02:29 | 好きな絵本
日曜日にことり文庫さんへ行ったのは、お取り置きの本の、
受取のためでもありました。

夫が頼んだ写真集と、私が頼んでおいたこの絵本。

『ハンバーグーチョキパー』
長 新太・作 和田 誠・しあげ

年少版2009年3月号です。

長さんが残したラフスケッチを、和田誠さんが、福音館からの依頼で
絵を付けて、1冊の絵本に仕上げたものです。

同じような絵本として、こちらがすでに出版されていますよね。
 

こういうのは、「絵本」としてはどうなんだろうね?
と、こうめさんともちょっと話しました。

惜しまれながら逝ってしまった、長さんのアイデアをもっと楽しみたい、
もっと絵を見てみたいという気持ちは、もちろん私にもありますが、
下書きやラフスケッチは、やはり「下書き」であり、あくまでも「ラフスケッチ」
なのではないかなあとも思うのです。

和田誠さんが、長さんだったらどうするだろうと、考え抜いて
最良の選択をしたとしても、やっぱり手放しでは喜べないかなあ
という感じ‥でしょうか。

でもでも。
それでも、せっかくだし、年少版だし(価格が手頃なことと
ハードカバー化されないかもしれないから)
記念だからと、ことりさんに頼んでとっておいてもらった私です。

「記念だしね」と、こうめさんに言ってる私の隣で、小6女子が、
「記念って、なんの記念?」とシビアな発言。
「‥‥‥」な私。

はい。正直に言いますね。
記念って、記念とはー 買いたい・欲しい とはっきり言えない時に
使う言葉です。
類義語で、「機会に恵まれた」とか、「出会ってしまった」というのも
あります。たいていの場合、せっかくだからという言葉と共に使います・笑



『ハンバーグチョキパー』は、せっかくの記念本としてではなく、
もちろん充実の、長さんスタイルナンセンス絵本として楽しめました。

一本道を、お皿にのったハンバーグステーキが歩いてきて、
逆側から来た、同じようなハンバーグステーキとばったり出会って、
どちらも道を譲らずけんかになってしまうのですが‥
ふたり(ふた皿?)がごちゃごちゃやっている間、時間が確実に流れて
いることが、空の色の移り変わりからよくわかって、そこが、いいなあ
と思うのです。

ごちゃごちゃの解決には時間がかかりますものね。
最後には夕焼けのオレンジ色になっています。

きっと、長さんも、空の色をそんなふうにつけるのでは
ないかな、と思いました。





海と島とふたつの家族

2009-01-22 18:16:05 | 好きな絵本
先日のセミナーで知り、とても気になったのはこの絵本でした。

海と島のマイリ
 スーザン・クーパー文 ウォリック・ハットン絵
 ふるた ちえ訳


日本の、天女の羽衣伝説と似たような話ですが‥。

大きく違っているのは、天女が最初から、人間の格好をしていて、
若者に取られてしまったのが、衣(ころも)すなわち衣服であるのに、
この話は、海に住むアザラシが、自らの毛皮を脱いで、人間の娘に
なっていたとき、その毛皮を奪われてしまったというところです。

動物に姿を変えられてしまったり、人間+動物の格好をしたものなど、
世界中には色々なお話がありますが、アザラシがその毛皮を脱ぐ、という
ダイナミックさに、私はかなり興味を持ちました。

それについては、裏表紙には、ちゃんと説明がありました。


原題は、THE SELKIE GIRL

セルキー(Selkie)はケルト人の伝説に出てくるあざらしを指す言葉で、
この種類のあざらしは、あざらしの毛皮をまとった妖精だと考えられてきました。
セルキーは、人間の姿になったときは、とても美しく、男のセルキーは
人間の女と恋をし、女のセルキーは人間の男に求められて、妻になったと
いい伝えられています。(後略)




12月のおはなし会で聴いた「白鳥の王女」のときもそうだったのですが。
自分がかつて居た世界からのお迎えがきたときに、帰るか帰らないのかの
選択がすごく気になっているのです。

白鳥の王女は、家族の呼びかけには応えなかったのに、元の恋人から
声をかけられたら、すぐにでも白鳥に戻ってついていく勢いでした。
(一瞬早く、人間の夫におさえられて、飛び立てなかったんですが)

このアザラシの娘は、毛皮を捕られてしまったので、島の男(ドナラン)に
ついていくしかありません。
いくらドナランに愛され優しくされても、もう二度と歌を歌うこともなくなった娘‥
開いた窓から海の音に耳を澄ませるシーンがせつないです。

それでも、5人の子供に恵まれ、子どもたちは立派に成長していきます。
母となった「アザラシの娘」は、元の世界に戻れることができるなら、
5人の子供を置いて、帰っていってしまうのでしょうか‥
母にとっては偽りの世界‥でも子供への愛は、偽りではないと信じたいし、
何も知らずに大きくなった子供たちが不憫にも思えます。

しかし、この物語の後半は、別れは待っているものの、それは行き場のない悲しみではなく、
のびやかで、なにか大きなものに包まれている感じがしました。


セミナーのときに、末盛さんは、様々な理由で別れ別れに、暮らさざる
おえなくなった家族もたくさんいるのだから、
こういうラストがあっていいんじゃないか、ひとつの家族の形ではないか、と思って
本にした、というようなことを(たしか)おっしゃっていたと思います。
(訳者のふるたさんも、あとがきでそれに触れられています。)

同じところで、ひっつきあっているのが「家族」ってわけじゃないし、
離れていても、たとえ二度と会うことが叶わなかったとしても、家族は
家族に変わりはないし、
家族同様に大切な人も、いつまでも、大切な人であることに変わりはありません。


邦題の「海と島のマイリ」‥マイリというのは、ドナランがつけた名前ですが、
読み終わってから、題名に戻ると、なるほどなあと思います。

海だけでも、島だけでもなくって、アザラシの娘は、その両方に存在しているのですもの。