前々回記事↓↓の続き。
「私を羊の群れに入れて下さい(羊は信仰深いキリスト教徒のアナロジー)」、「主の右側に置いて下さい(天国に導かれる人は右側に、地獄に送られる人は左側に振り分けられるという聖書の記述から)」云々という歌詞も、すべて『最終審判』に係る嘆願です。(バックグラウンドを知らないと意味不明ですよね 笑)
ヴェルディのレクイエムでは、第2曲"Dies irae"が、こういう、直接的に『最後の審判』について触れた曲で、レクイエム全体の半分近くを占めてます。
残る半分も、基本的には、神を称え、死ぬことがない『魂』への『永遠の祝福』(魂の救済、安息=レクイエム)を願う内容の曲ですね。
拙作"Wie die Turteltauben"で使った"Lux aeterna"(ルクス・エテルナ;永遠の光)も、この↑部類。(ちなみに私の話の中では、『作者の都合』(笑)上、「永遠の光を、彼らの上に」と訳してますが、直訳的には「永遠の光を輝かせ続け給え」というのが近いかな?)
で、この『魂の救済』を誰のために祈るか、ってところが一つポイントですが、確かにたいていレクイエムは亡くなった誰かのために作曲されることが多いですし、ミサとしての「レクイエム」も葬送・追悼のために行われるものなので、「(誰か特定の)死者のため」という要素は少なからずあります。
が、基本的に人間はみんな死ぬので、レクイエムを歌ってる本人もいずれ『最後の審判』を受けるわけで、そういう(「自分の魂も救って下さい」的な)意識もかなりあるように思われます。
歌詞を見ても、「神を信じる全ての者を」みたいに普遍化されてたり、あるいはほとんどの箇所では、「私の」とか「私を」という一人称的な表現になってるんですよね。
まあ解釈は色々だとは思いますが、私は、「レクイエム」を死者のためだけのものだとは思ってません。
こういうことはたぶん、音楽関係者よりもキリスト教関係者の方が詳しい?んでしょうから、番組製作者はそういう人に話を聴いた方が良かったんじゃないですかね。もっとも、クラシック畑の人ならたいてい、宗教曲の授業やなんかで、ある程度、背景についても勉強してるはずですが。
ヴェルディがこの曲の作曲にあたってエモーショナルな要素を重視してるのは確かでしょうが、テキスト(歌詞)のあるものはその内容から乖離することはできない(素直な読み方をするにしろ、うがった読み方をするにしろ)ですし、そもそも人間が創作するものはその人の持つバックグラウンドの上にしか築かれないものなので、この曲について何か言おうとするなら、まずはキリスト教の基本的な考え方を理解する必要があるような気がします。
クラシックに限らず、文学を含めた中世以降の西洋芸術は、キリスト教の影響と言うよりも、キリスト教の地盤の上に成り立ってるわけですが、日本人にはそういった精神的背景は馴染みが薄いからってことで、ああいう、曲の趣意からとっ外れた解説になっちゃったのかもしれませんね。でも、天下のN○Kたるもの、適当な想像で妙な説明をこじつけるんじゃなく、ちゃんと背景を説明した上で、より深く曲を理解し、親しみを増せるような話にした方が良かったんじゃないかな。と思いました。
あと、「アマデウス」では、ヴェル・レクの最終曲が、静かなコーラスのみの"Requiem aeternam"(レクイエム・エテルナム;永遠の安息を)で成り立ってるみたいな言い方をしてましたが、実際は最終曲の主体は"Libera me"(リベラ・メ;我を解き放ち給え)というかなり派手な曲で、さらに言えば"Dies irae"も間に入ってますので、全体としては過激と言うか、ドラマチックな音楽です。...ので、この点も誤解なきよう(笑)
ヴェル・レクの録音は良い演奏が色々ありますが、やっぱり一番衝撃的なのはA. トスカニーニ指揮/NBC交響楽団(1951年録音)でしょうか。
伝説の『恐怖のグラン・カッサ』は、聴いてて思わず笑っちゃう位『ヤリ過ぎ』なんですが、コレ聴いてから他のを聴くと、何か物足りなく感じちゃうんですよね(笑)
「私を羊の群れに入れて下さい(羊は信仰深いキリスト教徒のアナロジー)」、「主の右側に置いて下さい(天国に導かれる人は右側に、地獄に送られる人は左側に振り分けられるという聖書の記述から)」云々という歌詞も、すべて『最終審判』に係る嘆願です。(バックグラウンドを知らないと意味不明ですよね 笑)
ヴェルディのレクイエムでは、第2曲"Dies irae"が、こういう、直接的に『最後の審判』について触れた曲で、レクイエム全体の半分近くを占めてます。
残る半分も、基本的には、神を称え、死ぬことがない『魂』への『永遠の祝福』(魂の救済、安息=レクイエム)を願う内容の曲ですね。
拙作"Wie die Turteltauben"で使った"Lux aeterna"(ルクス・エテルナ;永遠の光)も、この↑部類。(ちなみに私の話の中では、『作者の都合』(笑)上、「永遠の光を、彼らの上に」と訳してますが、直訳的には「永遠の光を輝かせ続け給え」というのが近いかな?)
で、この『魂の救済』を誰のために祈るか、ってところが一つポイントですが、確かにたいていレクイエムは亡くなった誰かのために作曲されることが多いですし、ミサとしての「レクイエム」も葬送・追悼のために行われるものなので、「(誰か特定の)死者のため」という要素は少なからずあります。
が、基本的に人間はみんな死ぬので、レクイエムを歌ってる本人もいずれ『最後の審判』を受けるわけで、そういう(「自分の魂も救って下さい」的な)意識もかなりあるように思われます。
歌詞を見ても、「神を信じる全ての者を」みたいに普遍化されてたり、あるいはほとんどの箇所では、「私の」とか「私を」という一人称的な表現になってるんですよね。
まあ解釈は色々だとは思いますが、私は、「レクイエム」を死者のためだけのものだとは思ってません。
こういうことはたぶん、音楽関係者よりもキリスト教関係者の方が詳しい?んでしょうから、番組製作者はそういう人に話を聴いた方が良かったんじゃないですかね。もっとも、クラシック畑の人ならたいてい、宗教曲の授業やなんかで、ある程度、背景についても勉強してるはずですが。
ヴェルディがこの曲の作曲にあたってエモーショナルな要素を重視してるのは確かでしょうが、テキスト(歌詞)のあるものはその内容から乖離することはできない(素直な読み方をするにしろ、うがった読み方をするにしろ)ですし、そもそも人間が創作するものはその人の持つバックグラウンドの上にしか築かれないものなので、この曲について何か言おうとするなら、まずはキリスト教の基本的な考え方を理解する必要があるような気がします。
クラシックに限らず、文学を含めた中世以降の西洋芸術は、キリスト教の影響と言うよりも、キリスト教の地盤の上に成り立ってるわけですが、日本人にはそういった精神的背景は馴染みが薄いからってことで、ああいう、曲の趣意からとっ外れた解説になっちゃったのかもしれませんね。でも、天下のN○Kたるもの、適当な想像で妙な説明をこじつけるんじゃなく、ちゃんと背景を説明した上で、より深く曲を理解し、親しみを増せるような話にした方が良かったんじゃないかな。と思いました。
あと、「アマデウス」では、ヴェル・レクの最終曲が、静かなコーラスのみの"Requiem aeternam"(レクイエム・エテルナム;永遠の安息を)で成り立ってるみたいな言い方をしてましたが、実際は最終曲の主体は"Libera me"(リベラ・メ;我を解き放ち給え)というかなり派手な曲で、さらに言えば"Dies irae"も間に入ってますので、全体としては過激と言うか、ドラマチックな音楽です。...ので、この点も誤解なきよう(笑)
ヴェル・レクの録音は良い演奏が色々ありますが、やっぱり一番衝撃的なのはA. トスカニーニ指揮/NBC交響楽団(1951年録音)でしょうか。
伝説の『恐怖のグラン・カッサ』は、聴いてて思わず笑っちゃう位『ヤリ過ぎ』なんですが、コレ聴いてから他のを聴くと、何か物足りなく感じちゃうんですよね(笑)