聖徳太子研究の最前線

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広隆寺前身の古さと太子関連寺院の瓦つながり: 渡里恒信「蜂岡寺・葛野秦寺と北野廃寺」他

2011年07月15日 | 論文・研究書紹介
 寄り道ついでに、また、聖徳太子と四天王寺・広隆寺との関係の有無について別の視点から眺めるため、きっかけとして取り上げてみたいのが、

渡里恒信「蜂岡寺・葛野秦寺と北野廃寺--広隆寺の創立と移転をめぐって--」
(『政治経済史学』502号、2008年8月)

です。

 渡里氏は、広隆寺創建に関する諸説を概観し、出土瓦の古さから見て、北野廃寺が広隆寺の前身であった蜂岡寺であって、『日本書紀』が記するように推古11年(603)頃の創建とみなしてよいとします。ただ、前回の記事でも触れた北野廃寺=秦河勝の邸宅を改造した仏堂程度=平安京収用説については、移転という結果から見た憶測にすぎないと思われる、と批判します。

 というのは、現在の広隆寺(太秦)では七世紀前半の伽藍の跡は見つかっていないからです。一方、『天暦御記』が記す伝承のように、秦河勝の邸宅が後の大内裏の場所にあったとすると、北野廃寺はそのすぐ西北であり、丘陵を背景として居館と寺が並ぶのは、斑鳩宮と斑鳩寺が示すように、飛鳥時代によく見られたものです。その北野廃寺こそが、公的な性格が強かった伽藍なのであり、新羅からの仏像を受け入れたのもここではないか、と渡里氏は見るのです。

 これに対して、現在の広隆寺は、出土瓦から見て、蜂岡寺につぐ葛野秦氏の氏寺として、推古朝後半に建立されたと思われるとします。ただし、聖徳太子の為の創建とするのは、聖徳太子信仰による潤色であろうから、後になって太子の没年を創建の年とした可能性も捨てきれないと説きます。

 平安京が造営された以後は、蜂岡寺(北野廃寺)が資料に登場しなくなるのは確かですが、その場所に野寺(常住寺)と称される寺院があり、桓武天皇の勅願寺である近江の梵釈寺と並ぶ形で朝廷関連の記録にしばしば出てくることが知られています。旧勢力の仏教に縛られるのを嫌った桓武天皇は、平安京内には奈良の大寺を移築させず、内裏から離れた位置に東寺・西寺を設置したのみでしたが、内裏に近いところに寺がないと天皇・朝廷の仏事に不便であるため、平安京造営に大きな役割を果たした秦氏の北野廃寺を常住寺に改めてそのための寺としたのではないか、というのが渡里氏の推測です。

 そこで、蜂岡寺は秦寺に寺藉を移し、これが現在の広隆寺となったと見るのですね。このように、渡里氏は、『日本書紀』が説く通りの時期頃に秦氏によって蜂岡寺と秦寺が造営されたことを認めるものの、聖徳太子との関わりは「かならずしも明確ではない」と述べるにとどめています。これはこれで、ひとつの見識でしょう。
 
 さて、ここからは、私が古代寺院の瓦に関する諸論文を読んでいるうちに結びついてきた事柄、重要と考えるようになった事柄です。

 これから書く論文で触れる予定なので簡単に記すだけにしますが、まず、広隆寺の創建瓦である軒丸瓦は、弁端点珠の素弁蓮華文であって、同じ文様が四天王寺の創建瓦にも見られるほか、備中の秦廃寺でも出ているため、秦氏は四天王寺にも何らかの形で関与していた可能性があることが、網伸也「摂津の古墳と寺院」(『季刊考古学』第60号、1997年8月)などによって指摘されています。

 その四天王寺に瓦を供給したことが分かっている複数の窯のうち、早い時期の代表は、秦氏が勢力を持っていた山背の地と河内との間に位置している楠葉平野山瓦窯です。飛鳥寺で使われた瓦当笵が豊浦寺の瓦作成に当たって改良され、それが若草伽藍用に使われた後、その瓦当笵が工人と一緒に移動したとされるのはここですが、この土地はもともとは肩野物部氏の土地であって須恵器を焼いていたところであることが知られています。つまり、守屋合戦の後、この地は上宮王家か蘇我氏か双方のものとなり、寺院のための瓦窯となって四天王寺に瓦を供給したらしいのですね。

 四天王寺に瓦を供給した別の場所の一つは、高丘窯など播磨にある複数の窯です。ここも以前は物部領だったようですが、まだ中学生であった頃に、その近辺の地から鴟尾の破片を多数発見し、成人後に考古学者となった春成秀爾氏は、1983年の「明石発見の鴟尾新資料」(古代を考える会編『古文化論叢』)という早い時期の論文において、その鴟尾は四天王寺のものに最も近く、また播磨には広大な四天王寺領があったことを指摘していました。

 その播磨には、『勝鬘経』を講経したところ推古天皇から与えられた、という伝承を有する法隆寺領の斑鳩荘があることは有名です。その地には、聖徳太子信仰で知られる斑鳩寺が残っており、今日でも太子に関わる儀礼・行事をおこなっているほか、下大田廃寺のように法隆寺式軒瓦が出土しているところもあります。また、太子信仰で知られる鶴林寺もその東方の加古川にあります。つまり、ここでも播磨の地と四天王寺や法隆寺(若草伽藍)との結び付きが見られます。

 さて、平野山瓦窯で焼かれた瓦は、四天王寺だけでなく、奥山久米寺(奥山廃寺)にも供給されていました。奥山久米寺は、飛鳥寺の北800メートルの所にあり、豊浦寺の北東、山田寺の北西にあたっています。つまり、豊浦宮や小治田宮を取り囲む飛鳥の要衝の地に位置しているのです。四天王寺式伽藍形式であって、山田寺より大きい金堂を有していたこの奥山久米寺からは、飛鳥寺や豊浦寺で用いられていた瓦が出ており、また、少し後には上で触れた播磨の高丘窯からも瓦が供給されていました。

 つまり、小治田寺という別名も持ち、小治田宮近くにあった奥山久米寺は、飛鳥寺や豊浦寺を造営した蘇我本宗家と関係が深く、蘇我氏か上宮王家かその双方の支援を受けていた四天王寺を支えた勢力とも関係があったと推測されるのです。その奥山久米寺の金堂跡から出る角端点珠形式の瓦は、大和では中宮寺・法輪寺・平隆寺ほかいくつかの寺から出土していますが、中宮寺・法輪寺・平隆寺となれば、言うまでもなく、いずれも厩戸皇子と関係の深い寺です。

 奥山久米寺は造営が一時期中断され、再開されて建立された塔には山田寺式軒瓦が葺かれています。蘇我系の小治田臣の氏寺とする説もありますが、上記のことから見て、小笠原好彦氏は、「同笵軒瓦からみた奥山久米寺の造営氏族」(『日本考古学』第7号、1999年5月)や「飛鳥の古代寺院と大和宇智郡の瓦窯」(『滋賀大学教育学部紀要:人文科学・社会科学』52冊、2002年)において、奥山久米寺は、蘇我馬子の弟と言われ、厩戸皇子に親しく仕え、山背大兄王を強く支援して蘇我蝦夷に滅ぼされた境部臣摩理勢の氏寺であったと推測しています。
 
 なお、四天王寺には若草伽藍で用いられ、すりへった瓦当笵で作られた瓦が用いられているだけでしたが、四天王寺のすぐ北東のところにある難波の堂ヶ芝廃寺からは、法隆寺式の瓦のセットが出土しており、同笵の瓦まで出ています。

 以上のことから何が見えてくるか。それは、守屋合戦に勝利して各地の広大な物部氏の領地を分け合った蘇我馬子・境部臣摩理勢・厩戸皇子の関係の深さ、その三者と渡来系氏族である秦河勝の関係の深さ、そして上宮王家と難波・播磨の関係の深さですね。
 
 厩戸皇子は推古元年に立太子したとして極度に聖人化し、蝦夷・入鹿を悪役として描く『日本書紀』の記述や、以後の聖徳太子伝が強調するような劇的な逸話は後になっての創作であるにせよ、瓦のつながりを見る限り、『日本書紀』の仏教関連の記述は、現代の懐疑的な文献史学が考えてきた以上に史実を反映している部分があるように思われます。

 少なくとも、厩戸皇子と四天王寺・広隆寺との関係、秦河勝との関係は否定しがたいのではないでしょうか。考古学では瓦の編年にあたって『日本書紀』の記述を利用しているため、循環論になる恐れもあるのですが、それだけでは説明できない密接なつながりが見られることも事実です。

【追記: 2011年7月16日】
 ひとつ、書き忘れてました。奥山久米寺(奥山廃寺)からは、鞍作氏の寺である坂田寺の軒丸瓦と類似する瓦が出てますが、坂田寺の瓦については、大脇潔「渡来系氏族寺院の軒瓦と基壇」(『季刊考古学』第60号、1997年8月)によれば、飛鳥寺の花組が粗雑化した弟子筋の作とされ、また飛鳥寺星組→豊浦寺→若草伽藍と伝わった系統のうち若草伽藍の最新の文様の影響を受けている可能性が指摘されているほか、若草伽藍の本尊を作ったとされる鞍作止利との関係が注意されています。ここら辺のつながりは複雑ですね。
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