聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

従来より踏み込んで聖徳太子の活動を説く最新の概説:河内春人「厩戸王子の到達点」

2023年03月05日 | 論文・研究書紹介

 集英社が創業95周年事業として『アジア人物史』全12巻の刊行を始めており、そのうちの2~7世紀を扱う第二巻『世界宗教圏の誕生と割拠する東アジア』が2023年2月末日に刊行されました。

 「巻頭言」を書いているのは、シリーズ全体の編者でもある李成市さんであって、かつての早稲田の助手仲間(李成市さんは東洋史、私は東洋哲学専攻)。「第1章 大乗仏教の成立 ナーガールジュナ」の執筆は、私の助手時代に東大の印度哲学科の助手をしていて学会関連の仕事も少し一緒にやった、これまた助手仲間の斎藤明さん。

 他にも知っている人が多少いますが、このブログに関わる内容を書いている章としては、河上麻由子「第6章 隋の文帝ー時代に選ばれた皇帝」、田中俊明「第8章 朝鮮半島の六世紀ー百済の中興と新羅の台頭」、仁藤敦史「古代天皇制の成立」などがあり、そのものズバリの章が、

河内春人「第9章 倭国の文明化と六~七世紀の東アジアー厩戸王子の到達点」

です。

 河内氏については、氏の『日本古代君主号の研究』をこのブログで以前、紹介したことがあります(こちら)。この章の構成は、以下の通り。

 はじめに
 厩戸王子
  一 生い立ち
  二 中国文明の受容 中国文明の流入/南朝文化圏と北朝文化圏
  三 倭国の文明化 仏教伝来/推古朝前夜
  四 推古朝という時代 厩戸の血脈/推古朝の政治と学術/
             推古朝の政策と中国文明
  五 厩戸王子の到達点 厩戸王子の死/推古朝の遺産
 推古大王
 蘇我稲目/蘇我馬子
 止利仏師とその一族
 その他の人物 東アジアの亡命者/府官たち/五経博士/日羅/
                     崇峻大王/小野妹子/秦河勝/観勒/慧慈

 この章の特長は、聖徳太子を「厩戸王子」と呼び、その事績をかなり認めていることです。まず、『日本書紀』の厩戸王子関連の記述は奈良時代における編者の創作でなく、「かなり早い時から成立していた伝承を書紀が組み込んだもの」としています。

 そして、「法大王」などと呼ばれることもあるが、この場合の「大王」は制度上の呼称ではなく、「天寿国繍帳」に見える「尾治大王」の語が示すように、王族をその身近な人が敬意をもって呼ぶものであるとし、厩戸王子が「大王」と呼ばれる有力な存在だったことは間違いないと述べます。

 生い立ちについては、父の用明天皇が「大兄皇子」と呼ばれていることに注意します。後の部分では、息子の山背大兄も「大兄」と呼ばれているのに対し、厩戸王子がそう呼ばれていないのは、「大兄にとどまらない政治的位置づけであることを周囲に印象づけた」と推測します。

 若い頃の学問については、仏教と儒学を学んだとする『日本書紀』と、仏教重視で「儒教との関わりついて言及しない」『法王帝説』との記述の違いに注意します。ただ、誰々に習ったといった記述はないものの、『帝説』では「三玄五経の旨を知り」とあるのですから、『易』『老子』『荘子』の三玄の学である哲学的な玄学と、儒教の五経に通じていたとされたことになります。むろん、後代の伝承ですが。

 そして、中国の南朝文化圏と北朝文化圏について概説し、百済と日本は南朝重視であったとし、新羅の台頭と制度整備が倭国に与えた刺激について注意します。その際、新羅の服制にあたる冠位十二階については、「厩戸王子が推古大王や蘇我馬子とともに実施した」と述べており、聖徳太子の役割を認めるようになりつつある史学界の中でも、かなり踏み込んだ書き方になっています。

 河内氏は、王子の生育は母方の宮でなされたため、渡来支族を活用し、仏教を推進した蘇我系である厩戸王子は、幼い頃から朝鮮半島から伝わった文化に強い共感を持っていたことが推察できるとします。ただ、蘇我馬子の娘との間に生まれた山背大兄を、膳氏出身の妃の間に生まれた舂米女王と結婚させるなどしており、「その子女はいわゆる上宮王家という一大勢力を形成した」と述べます。

 この点については、近親結婚という点に着目した拙論で強調したところです(こちら)。

 仏教との関連では、高句麗から派遣された慧慈が「厩戸の政策ブレーンとして活動していたことが透けて見える」と述べます。これは、編者の李成市さんの論文を考慮したものですね。

 ただ、河内氏は僧侶団を組み込んだ政治的グループを形成し、「斑鳩にその拠点を置いた」とするのですが、慧慈や慧聰などは飛鳥寺にいたのですから、そこまで言えるかどうか。中国では皇帝や王族や貴族の邸宅には、家僧と呼ばれる僧侶が住み、儀礼をしたり仏教教育を行っていたため、斑鳩にはそうした僧侶がいたでしょうが、代表的な僧は飛鳥にいたのですから、斑鳩での実態は不明と言わざるを得ないでしょう。

 この他にも、古代史や東アジア国際交流史を専門とする河内氏の記述は、全般に妥当と思われる部分が多いものの、仏教や中国の学問についてはやや問題のある記述が目立ちます。

 たとえば、「憲法十七条」で明確に仏教に触れているのは第二条のみと述べたり、「無忤」というのは『成実論』が出典と述べたりしたところがその例です。参考文献で私の聖徳太子本をあげていることが示すように、私の主張を考慮してくれているのですが、私が書いたのは、「無忤」は『成実論』や『涅槃経』を尊重する学派の僧尼が尊重した徳目だということであって、『成実論』が出典ではありません。このブログをもう少しきちんと読んでいただきたいですね。

 河内氏はさらに踏み込み、厩戸王子の死について複数の系統の文献が異なる立場で語っているのは、古代にあっては珍しいことに、厩戸が特別な個人とみなされていたためであり、夏目漱石が近代的な個人の確立に悩んだように、厩戸は「前近代的な個の発見で苦悩したといえようか」と述べます。

 これは、太子を苦悩する人間と捉えた小倉豊文などの系統の見方を進めたもので、賛成できる見解ですが、納得させるためには論証が必要でしょう。

 このように、河内氏の記述は、学術論文ではなく、一般向けの歴史叢書のうちの章という性格によるものではあるといえ、聖徳太子の事績を疑うのが近代的な研究としてきた戦後の動向を改め、それなりの役割を認めようとする最近の学界動向を象徴するもの、あるいはそうした傾向の中でさらに一歩踏み込んだものとなっています。

 以下、当時の主要な人物についても個別に簡単な紹介がなされています。そのうちの推古大王については、「仏教推進はあくまでも馬子と厩戸が主軸であり、推古はそれに同調するものの仏教を積極的に信仰していたかどうかは定かでない」と述べます。

 つまり、晩年になって僧侶の祖父殴打事件による仏教統制なども考慮してのことでしょうが、河内氏は、推古は様々な勢力のバランスをとることに留意した人物と見るのですね。つまり、大王家(敏達系と用明・上宮王系)、蘇我氏、それ以外の仏教熱心でない氏族などのバランスに注意した人物ということですね。

 バランス重視という点はその通りと思いますが、積極的な仏教信仰を疑う点はどうでしょうか。厩戸が仏教信仰の強い母方の蘇我氏の庇護のもとで育ったのであれば、蘇我稻目の娘の子である推古も同様でしょう。仏教が広まって乱脈な僧尼などが目立つようになった時期にとりしまろうとしたことは事実でも、若い頃から仏教に距離を置いていたとは限らないのではないでしょうか。

 個人的に熱心に信仰していればこそ、不純な者たちを罰しようとしたのであって、厳しい態度を見せた後、観勒の提案に従うという形で僧尼の管理制度をもうけたと見ることも可能なように思われますので、ここら辺はいろいろな解釈が可能なところです。

 いずれにしても、河内氏のこの章の記述は、聖徳太子の業績を疑うことこそが客観的な学問だとするかつての史学界の傾向が改まり、ある程度の活動を認めるようになった最近の史学界の傾向を、さらに大胆に進めたものといった感じがします。