前回、紹介した東野治之氏の担当部分、
「古代篇 第一章第六節 斑鳩の寺院と仏教文化」
の続きです。
東野氏は、薬師寺より10年ほど遅れ、和同4年(711)に法隆寺の復興がなしとげられたとし、この年は聖徳太子没後90周年あたることに注意します。天皇の忌日が国忌に指定されて法要がいとなまれれるのは持統天皇による天武天皇の国忌制定が最初であり、おそらく養老令の儀制令に規定されていたと見ます。
そうした動きと平行する形で聖徳太子の忌日も意識されたことについては、「壬午年二月」に飽波評の女子が幡を法隆寺に施入していることに注意します。この「壬午年」は、おそらく六八二年であって、太子が壬午年2月22日に亡くなってから60年となっていて月も同じであるのは、太子の忌日の法要と関連すると見るのです。
東野氏は、天平8年(736)年2月22日に数々の品が施入されたことが示すように、『法隆寺伽藍并流記資材帳』に記される施入記録には年忌を意識したものが見られることに注意します。
さて、そうして再興された法隆寺について、新旧の要素が見られることが知られています。金堂などは、唐の様式を承けた薬師寺などと違って南北朝の様式である一方、金堂や塔の壁画は最新の唐の様式で描かれており、中門の仁王像も唐風であるなどです。
そこで、東野氏は、薬師像については、釈迦三尊像に似せた様式で作成した「一種の疑古作」であって、この「疑古」という点は西院伽藍全体の基本理念であったと説きます。飛鳥時代の遺物も集められました。つまり、太子を記念する寺として、太子在世時の状況を再現すると同時に、新時代にふさわしい要素が盛り込まれたのであって、極めて特殊な宗教空間となったとするのです。
中宮寺については、天皇の后が中宮と称されるのは後になってからであるため、斑鳩宮・岡本宮・飽波葦垣宮の中間に位置していたための名と見るのが当たっている可能性があるとし、創建は7世紀前半とする推定を承認します。
法起寺については、諸説ありますが、聖徳太子の遺言により、山背大兄が岡本宮を寺とし、経済基盤として大倭國と近江国の水田が寄進されたが、造営は遅れ、舒明天皇時に金堂、天武天皇時に塔が建てられ、完成したのは慶雲3年(706)という流れとします。
法輪寺については、太子が建立を発願し、山背大兄がその子の由義王らに造営させたという伝承がありますが、平安中期の『御井寺勘録寺家資財雑物等事』によれば、高橋朝臣が寺の事務を取り仕切ったとされているため、膳氏が改姓した高橋氏の氏寺と見てよいとし、尼寺であったろうとします。
寺院に関する古代の誓願については、私も昔に論文をいくつか書いてますが、多くは「天皇の奉為(おんため)」「聖徳太子の奉為」といった形であって、それが後になると、天皇の発願、太子の誓願などと書き換えられていく傾向があるのですね。
太子と関わる由緒を持つ斑鳩のこれらの寺院については、法起寺、法輪寺、中宮寺が別々に建立されたにもかかわらず、7世紀末には再建された法隆寺西院伽藍で用いられた瓦と同じ系統の瓦で葺かれたことは見逃せないとします。これらの寺々でも、古い様式が採用されたのです。
東野氏は、この斑鳩の地が、藤原京や平城京に入る外国使節の経過地であったことに注意し、「外国向けに設定された聖地でもあったといえよう」と述べてしめくくっています。