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山背大兄が滅ぼされたのは近親結婚のためとする講演:石井公成「聖徳太子とその周辺の人々」

2022年08月22日 | 論文・研究書紹介

 浅草の浅草寺では、長らく「佛教文化講座」と称する公開講演をほぼ毎月おこなっており、それを編纂して毎年刊行しています。私も以前、禅宗は不立文字を立場としているのに、どうして文献が異様に多いのか、実は唐代の禅僧はかなり経典を読んでいたのだ、という講演をしたことがあります(こちら)。

 昨年12月、1400年遠忌記念ということで聖徳太子の講演を頼まれ、周辺の近親結婚の多さとその背景について話したところ、それが刊行されました。

石井公成「聖徳太子とその周辺の人々~近親結婚の背景~」
(『浅草寺 佛教文化講座』第66集、2022年8月、こちら

です。

 太子周辺の近親結婚については、以前、このブログで書きました(こちら)。今回の講演はそれに基づいて、新たに気づいた点を加えたものです。

 継体天皇は、誉田(応神)天皇の「五世の孫」とされており、大王家の血筋としては問題ありの人ですが、仁賢天皇の皇女を后としたことが即位を可能にしたと言われています。その息子で、蘇我稻目の娘たちを妃とした欽明天皇以後しばらくは、皇女を后にすることに加え、蘇我氏の血を引くか蘇我氏の女性を妃とすることも実際上の即位の条件に加わったように見えます。

 講演では、蘇我氏の血を引いていないことが強調されがちな敏達天皇にしても、蘇我系の異母妹である推古天皇を皇后としていることに注意しました。

 聖徳太子については、父方・母方ともに蘇我氏の血を引く最初の天皇候補者であって、敏達天皇と推古皇后の間に生まれた皇女を妃とし、蘇我馬子の娘である刀自古郎女も妃にしていましたので、即位の条件は揃っています。

 しかし、問題はその周辺です。異母兄の用明天皇の皇后となって聖徳太子を生んだ間人皇后は、夫の用明天皇が亡くなると、用明天皇が稻目の末娘?と結婚して生まれた田目皇子と結婚し、佐富女王を生みます。すなわち、義理の息子との結婚、かつ、叔母の息子つまり甥との結婚です。

 しかも、この佐富女王は、聖徳太子と膳氏の菩岐岐美郎女の間に生まれた長男の長谷王と結婚しています。長女である舂米女王は、太子と刀自古郎女の間に生まれた山背大兄と結婚していました。

 つまり、太子の周辺の婚姻関係は、太子の血族だけで完結しているのです。私は以前、山背大兄は天皇の娘と結婚していないため、天皇候補としての条件が弱いと考えていたのですが、聖徳太子は天皇に準ずる地位にいたのであって、山背大兄はその太子の娘、つまり異母妹の舂米女王を妃としていた以上、天皇の皇女と結婚しているという即位の条件は満足していることになると考えを変えました。

 山背大兄が天皇になる気満々であって、境部摩理勢のように、山背大兄を天皇候補として強く推していた人物がいたのは不思議でないのです。

 しかし、もう一つの条件は満たしていません。つまり、蘇我氏の娘を妃とするという点です。山背大兄に対する摩理勢の応援ぶりを見ると、摩理勢の娘を娶っていたのかと思われるほどだと、講演では語ってしまいました。馬子の弟とも言われる人物ですので、蘇我氏系といえば蘇我氏系ですが、本宗家ではありません。

 これが、山背大兄が蘇我氏に滅ぼされた大きな原因ではないかと考えられます。太子の晩年には、まさに婚姻が内部完結する斑鳩王朝のようになりつつあったのであれば、飛鳥を本拠とする蘇我氏の本宗家が警戒するのは当然でしょう。

 蘇我本宗家が蘇我氏の血の濃い山背大兄を推さず、蘇我氏の血は引いていなくても、蘇我蝦夷の娘と結婚していた田村皇子(舒明天皇)を推したのは、自然な流れと言えるかもしれません。田村皇子は、天皇の娘ではなく、孫娘、しかも結婚歴が有る宝女王と、時期は不明ながら結婚していますので、皇女を娶るという条件は満たしています(あるいは、満たすことになりました)。

 それに対して、山背大兄は条件が足りていませんし、境部摩理勢に代表される支族が蘇我本宗家と対立していたなら、なおのこと山背大兄と本宗家との関係は難しかったでしょう。

 近親結婚は、優秀な人間を生む場合も、困った人間を生む場合もあるとされていますが、優秀な聖徳太子が生まれたのも、その太子の長男を滅ぼしたのも近親結婚だったのではないかというのが、この講演の結論です。

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