聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『日本書紀』聖徳太子創作説に執着し、考古学の成果を都合良く使って斑鳩寺の成立の遅さをアピール:吉田一彦「聖徳太子信仰と日本仏教」

2023年03月27日 | 聖徳太子信仰の歴史

 播磨は法隆寺の所領があり、聖徳太子関連の伝承やゆかりとされる文物が多く残る地です。これに関する雑誌の特集が、昨秋出ています。姫路市文化国際交流財団が編集し、神戸新聞総合出版センターが発売している季刊誌、

『Ban Cul』No.125( 2022年秋号、2022年9月)

です。1400年遠忌を記念した「特集 聖徳太子と播磨」となっており、写真やイラストが豊富であるため、この地の旅行ガイドとして有用です。記事は、

吉田一彦「聖徳太子信仰と日本仏教」
田村三千夫「聖徳太子と播磨」
宮本佳典「鶴林寺と聖徳太子信仰」
大谷康文「聖徳太子と斑鳩寺-太子信仰を中心として」
茂渡俊慶「「聖徳太子絵伝」から読み解く太子のご生涯」
田村三千夫「『聖徳太子勝鬘経講讃図』を読み解く」
埴岡真弓「たゆたう「聖徳の王」の面影」

と並んでおり、以下、「太子ゆかりの地を尋ねて」と題して鶴林寺・鶴林寺界わい・斑鳩寺・斑鳩寺界わい・増位山瑞巌寺・一乗寺、奥山寺の紹介がなされ、さらに、

宇那木隆司「創られた伝説 秦河勝と聖徳太子と播磨」
太子町企画政策課「聖徳太子没後千四百年を迎えて 「和のまち」太子町で多彩な催し」
伊藤太一「スケッチ探訪 刀田山鶴林寺」

と続いています。こうした特集はライターさんが書くことが多いのですが、この特集では地元の人材を活用しており、名古屋市立大学の吉田氏を除けば、田村氏は太子町歴史資料館館長、宮本氏は加古川市教育委員会文化財調査研究センター学芸員、大谷氏は斑鳩寺住職、茂渡氏は鶴林寺住職、埴岡氏は播磨学研究所運営委員兼研究員、宇那木氏は姫路市教育委員会文化財担当、となっています。

 播磨の地が早くから聖徳太子および法隆寺と関係が深かったことは事実でであるものの、この地には、四天王寺系のものを含め、後になって生まれた伝説もたくさんあります。上記の短い記事では、「太子が播磨でこれこれされた」などといった書き方は避け、「寺伝によれば」とか「伝承では」といった穏健な書き方をしているものがほとんどです。

 そうした中にあって、問題のある箇所が目立つのが、総論となっている吉田一彦氏の「聖徳太子信仰と日本仏教」です。大山誠一氏が主唱し、吉田氏が補強して進めてきた「<聖徳太子>は『日本書紀』の最終編纂時に藤原不比等・長屋王・道慈が律令制における天皇の模範とするため、ぱっとしない厩戸王をモデルとして創りあげた聖人像であって、太子関連記述は道慈が執筆した」説は、とっくに論破されており、この10年ほどは学界ではまったく相手にされていません。

 そのため、吉田氏は、研究の中心を後代の太子信仰、そして神仏融合思想の研究に移し、虚構説には触れなくなったものの(たとえば、こちら)、以後も自分に都合の悪い説については無視していることについては、このブログで紹介してきました(たとえば、こちら)。

 今回の吉田氏のこの概説は、まさにそうした路線を受け継ぐものであり、否定された不比等・長屋王・道慈創作説には触れないにもかかわらず、参考文献には以前の大山氏の本と自分の編著などを並べるだけです。

 本文でも、聖徳太子については、年々指摘されることが増えている生前の活動の可能性には触れず、『日本書紀』が聖人像を作り上げたという点を強調するだけでなく、厩戸皇子の仏教関連の活動をできるだけ過小評価しようとしています。たとえば、厩戸皇子が創建したことが確実な斑鳩寺の扱いがその一例です。

 吉田氏は、蘇我馬子が飛鳥寺を創建したと述べた後で、「その後、飛鳥寺に続いて、新堂廃寺(烏含寺)(大阪市富田林市)、豊浦寺(奈良県髙市郡明日香村)、北野廃寺(野寺)(京都市北区下白梅町)、斑鳩寺[若草伽藍](法隆寺)(奈良県生駒郡斑鳩町)、四天王寺(大阪市天王寺区)などの初期寺院が造立されていった」(10頁)と述べます。

 「飛鳥寺に続いて……などの初期寺院が造立されていった」というこの書き方だと、「聖徳太子は蘇我馬子とともに仏教を盛んにしたと習ったけど、斑鳩寺・四天王寺って、日本最初の本格的な寺院である馬子の飛鳥寺よりずっと後になって建てられたの? 最初期の寺院の中では、実は一番最後に建立された寺だったのか」などと考える人が出てきそうです。

 吉田氏は道慈執筆説で盛んに書いていた頃は、大山氏と同様、考古学や美術史の成果はまったく無視していたのですが、今回のように考慮するとなると、こうした利用の仕方をするんですね。

 寺院の建立時期、瓦の系統、地域の別を知るために便利な図というと、30年以上前のものですが、毛利光俊彦「仏教の開花」(町田章・鬼頭清明編『新版 古代の日本』第六巻「近畿Ⅱ」、角川書店、1991年)の図(91頁)があります。

 Ⅰ期は飛鳥寺の伽藍中枢が完成した600年(推古8)頃まで、Ⅱ期は中宮寺創建の630年(舒明2)頃まで、Ⅲ期は山田寺の造営が始まる641年(舒明13)頃まで。記号は、●が蘇我氏系、◼が上宮王家系、▲が秦氏系です。ただ、秦氏独特の瓦が焼かれるのはやや後になってからであって、秦氏の初期の瓦窯では蘇我氏系の瓦を焼いていました。

 この図を見ると、推古天皇の三宝興隆の詔を受け、蘇我氏の傍系氏族、蘇我氏と関係深い渡来氏族、蘇我系である上宮王家を中心として一斉に寺院建設が始まったことが分かりますね。

 これらの諸寺のうち、瓦から知られる創建年代が大幅に早くなって話題になったのが、吉田氏が飛鳥寺の次に並べた河内の新堂廃寺です。2005年に調査報告が出ています(PDFは、こちら)。

 最近では、その調査での瓦に関する技術分析の中心であった栗田薫氏が、「ドクターかおるの考古学ワールド」(季刊『大阪春秋』)という一般向けの連載でわかりやすく解説しています。中でも、(8)の「新堂廃寺塔跡の調査」(47巻3号、2019年)から(14)の「考古学の可能性ー新堂廃寺の創建年代をめぐってー」(49巻1号、2021年)までの記事は、最新の考察がなされていて有益です。

 これらによれば、富田林市の新堂廃寺は、当初は四天王寺にやや遅れる頃の創建と推測されたのですが、その後の調査によって、意外な事実が明らかになりました。

 新堂廃寺の塔の創建瓦は、飛鳥寺の創建時に用いられた花組系統・星組系統の瓦のうち星組系統であって、百済の瓦とそっくりであり、飛鳥寺の創建瓦と同様、技術的な水準が非常に高かったのです。しかも、垂木先瓦Ⅰ型に至っては、新堂廃寺で使われている瓦が飛鳥寺でも少数用いられていました。

 その垂木先瓦Ⅰ型は、新堂廃寺のすぐ北のオガンジ池瓦窯で焼かれたものであり、新堂廃寺の塔で用いられたほか、飛鳥寺の中門・回廊で補足として用いられていました。韓国の寺院の瓦の研究が進んだ結果、その蓮華文は、飛鳥寺の瓦の手本となった百済の王興寺のものより前、つまり、都が熊津にあった頃から扶余に移る6世紀前半から末にかけて流行したもので、星組の型が生まれる前段階のものだったことが判明しました。

 したがって、その瓦が葺かれた新堂廃寺の塔は、飛鳥寺の造営とほぼ同時期に建立されたことになりますので、学界に大きな驚きを与えたのです。

 新堂廃寺を建てた人物については、新堂廃寺と同じ瓦が使われている近くのお亀石古墳に葬られた人だろうと推測されています。ただ、百済の技術者を招いた蘇我氏と密接な関係にあったことは推測できるものの、どの氏族の誰かは不明です。

 また、最初は四天王寺式伽藍配置であった新堂廃寺は、やがて、東西に大きな建物が配置される百済の定林寺や王興寺のような配置になって発展していくのですが、塔に続く金堂・講堂・中門などがいつ頃完備したのかなどは、まだ明らかになっていません。

 次に、豊浦寺は三番目に置かれてますが、飛鳥寺より造営がかなり遅れるのは、推古天皇が推古11年(601)に小墾田宮に移り、それまで宮であった豊浦宮を、推古の叔父である馬子が改めて尼寺にしたためです。自分の家を寺に改める捨宅寺院は、信仰の深さを示すものですが、大がかりな宮廷儀礼をおこなうことができる最初の宮である小墾田宮の造営が終わるまでは、寺の造営を始めることはできず、瓦窯を整備するなどして準備するほかなかったのです。

 次に、吉田氏がその豊浦寺後に記した北野廃寺は、秦氏が勢力を持っていた山背の地、つまり、現在の京都市北区白梅町あたりにあったと推定されている寺です。

 その創建時の軒平瓦と推測される瓦は、北野廃寺のすぐ南西の北野廃寺瓦窯で焼かれています。飛鳥寺の花組系統のものであって、飛鳥寺に続く古さが知られます。もう一種は、左京区岩倉にある幡枝元稲荷窯で焼かれもののです。

 もう一つの種類は、これまた秦氏の支配地にあった宇治の隼上り窯で焼かれたものです。隼上り窯は、遠い飛鳥の地の豊浦寺に瓦を供給した窯です。また、秦氏の支配地にある平野楠葉瓦窯は、飛鳥寺で用いられ、豊浦寺造営の際に改良されて斑鳩寺(若草伽藍)の瓦を造るのに用いられた瓦当笵が持ち込まれ、それをすり減った状態で使い続けて四天王寺の瓦を作成したことで知られています。

 蘇我馬子の弟とされ、厩戸皇子と親しく、その子の山背大兄を応援していた境部摩理勢の寺と推測される奥山久米寺(こちら)にも瓦を供給しています。秦氏と上宮王家の関係の深さが分かりますね。

 さて、吉田氏は、飛鳥寺、新堂廃寺、豊浦寺、北野廃寺(野寺)、斑鳩寺(若草伽藍)、四天王寺という順序で並べていますが、問題は、北野廃寺の性格と創建年代です。

 『日本書紀』によれば、「憲法十七条」が作成される前年の推古11年(603)11月に、皇太子(厩戸皇子)が自分が持っている尊い仏像を礼拝する者はいないかと大夫たちに尋ねると、秦河勝が自分が祀りますと申し出て仏像をもらい、蜂岡寺を造ったと記されています。

 北野廃寺は、この蜂岡寺なのか。『日本書紀』によれば太子が亡くなった推古29年(621)の翌々年の推古31年(623)に、新羅の使が献上した仏像を葛野の秦寺に納め、舎利・金塔・潅頂幡などを四天王寺に納めたとされます(ただし、平安時代の岩崎本では太子が亡くなったのは、釈迦三尊像銘や『法王帝説』と同様に622年とし、新羅使の来朝は623年とします)。

 蜂岡寺は移転して現在の広隆寺となったと伝えられていますが、広隆寺からも飛鳥時代の瓦が出ていたりするため、蜂岡寺、葛野秦寺、広隆寺については、別名説・移転説・合併説などの諸説があり、論争が今でも続いています(たとえば、こちら)。

 また、新羅使が献上した仏教関連の品々は太子の逝去を承けてのものであるため、太子と関係が深い葛野秦寺と四天王寺に納めたと推測されていますが、それにしては斑鳩寺が出てこないのは不思議です(『日本書紀』は、主として四天王寺系の資料を用いており、法隆寺系の資料は利用していないようです)。

 いずれにしても、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課編『飛鳥白鳳の甍~京都市の古代寺院~』(発行元も同じ、2010年)の「広隆寺」の項によれば、603年は寺院造立のきっかけとなった仏像拝領の年であり、623年にはある程度建設が進んでいた以上、「(北野廃寺)葛野蜂岡寺の創建は両者の間」(9頁)と考えられるとしています。

 ここでは、北野廃寺=蜂岡寺としていますが、創建年代については603年と623年の間としか言えないとするのです。また、北野廃寺からは大量の瓦が出土しているものの、平安京造成の際に大幅な工事がなされたたためか、講堂と思われる部分の瓦積み基壇が発見されただけであって、塔の跡も金堂の跡も発見されていません。つまり、創建が何時頃で、どのよう過程を経て伽藍が整備されていったのかは不明なのです。

 また、吉田氏は「北野廃寺(野寺)」と記しており、「野寺」を別名扱いしていますが、蜂岡寺は名が示すように丘陵にあったと思われるのに対し、北野廃寺の場合、その周辺の地名は平野や小松原などであって平坦な地であるため、蜂岡寺とは別の寺とする説もあります。

 いずれにせよ、渡来系であって技術力があった秦氏は、上述したように、蘇我氏と密接な関係を持ち、飛鳥寺創建時の瓦に似た瓦を北野廃寺側の瓦窯で焼き、自らの氏族の寺を建立すると同時に、山背の地に複数の瓦窯を設け、蘇我氏やその傍系氏族、そして関係深かった蘇我系の上宮王家の寺のために瓦を大量に供給したのです。

 推古朝の初期の寺院については、小さな仏堂程度のものも多く、あるいは塔だけ、金堂だけが建てられ、後になって伽藍が整備されていったものも多いことが知られています。

 その点、斑鳩寺は、飛鳥寺や豊浦寺の後に建立されたものの、天皇後継候補であった厩戸皇子が自らの宮と平行する位置に建てた本格的な寺院であって、舒明天皇の百済大宮と百済寺の模範となったうえ、飛鳥寺の金堂に匹敵する大きな金堂を持ち、日本最初の壁画を備えた寺でした。

 こうした事情を知らない人が上記の吉田氏の文章を読むと、聖徳太子関連の寺は、仏法興隆の最初期ではなく、初期寺院建立時期の最後になって造営されたのだ、という印象を受けるでしょう。しかも、この記述の後、聖徳太子は『日本書紀』が理想的な人物像として創りあげたという記述が続くのですから、なおさらです。

 大山氏は、厩戸王は斑鳩に宮と寺を建てたものの、都から遠く離れた斑鳩の地のことであって、推古朝末期には46もあったうちの寺の一つにすぎないといった言い方で、若草伽藍を矮小化していました。吉田氏の記述は、考古学の成果に注意するようになりながら、まさにそのやり方を踏襲しているように見えます。

 吉田氏は、これに続く部分では、「厩戸皇子を特別視し、聖人聖徳太子として信仰する<聖徳太子信仰>は、早くすでに『日本書紀』において開始されていると言ってよい」(11頁)と書き、「『日本書紀』によって創作、造型された理想的な人物の一人であった」として大山氏の『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、一九九八年)を参考文献として指示しています。

 当時は、大山氏も吉田氏も、実在したのは「厩戸王」にすぎないという論調でしたが、「厩戸王」はどこかに消えましたね。もちろん、「厩戸王」という呼称は小倉豊文が戦後に提唱したものだという私の指摘には触れません。

 また、「聖徳太子」という語は、捏造した『日本書紀』や大山・吉田氏が聖人化を強めたとする奈良時代の行信や光明皇后も使っておらず、奈良時代半ばすぎになって、歴代天皇の漢字諡号を定めた文人の淡海三船が創出したか広めたとする私の発見にも、もちろん触れません。

 それに『日本書紀』が厩戸皇子を神格化していることは、歴史学者は誰でも知っていたことです。大山説が注目されたのは、不比等・長屋王・道慈が理想的な聖人像を創りあげたと論じたからです。その根本部分を否定された後になって、大山氏の著書をあげ、最近の研究成果を示さないのはなぜなのか。

 また、『日本書紀』の厩戸皇子関連記述は、「東宮聖徳、厩戸皇子、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、(豊聡耳)法主王、厩戸豊聡耳皇子、皇太子、上宮厩戸豊聡耳太子、厩戸豊聡耳皇子命、上宮太子、上宮皇太子、上宮豊聡耳皇子、皇太子豊聡耳尊、聖皇」と記されており、箇所によって呼び方が様ざまであることが示すように、いろいろな系統の記述を寄せ集めたものであり、文章には和習、それも初歩的な語法の誤りがあちこちで見られました。

 つまり、太子は『日本書紀』の編集以前から特別視され、いろいろな方面で神格化した伝承がなされ、和習を帯びた文章による記述が既になされていたのです。唐に16年いた道慈が一人で、場所によって異なる文体と異なる呼び方を使い分け、和習混じりで書いたのではないことは明らかです。

 一冊の本の中で、「私は東京は好きではありません」、「あたし、東京は好きじゃない」、「我、東京を好まず」、「ワタシ、東京、好きないです」とあったら、同じ人が書いたとは思えませんが、「東京」と「好」という漢字にしか注目しない人はどれも同じような内容に見えるでしょうし、「好き」なのか「好きでない」のかも区別できません。

 また、「我、東京を好まず」という文については、江戸が東京と名を変えたのは明治になってからだから、これは近代に書かれたのだろうなどと考える人もいるかもしれませんが、江戸の文人は、京都に対抗し、唐代の洛陽・長安の呼び方を真似て江戸を「東京(とうけい)」と称することもありました。この語は古いはずだ、新しいはずだという思い込みで判断することはできないのです。

 吉田氏は、『日本書紀』の記述を漢文の語法に注意して文章として読むことができず、単語だけ拾ってあれこれ想像する以前のやり方のままなのでしょうか。

 また、明日香と斑鳩を斜め一直線で結ぶ幅広い太子道の発掘や、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」の一致点など、太子関連の新しい研究成果については、まったく触れられませんね。

 聖徳太子に関する近年の歴史学の論文は、程度の違いはあるにしても、厩戸皇子の活動を認めるものばかりであって、大山流の太子虚構説については批判する必要すら認めず、まったく相手にしていないのが実状ですが(たとえば、こちらや、こちらや、こちら)。

 あと、「鑑真の影響を受けて、聖徳太子伝を作成するようになった」(12頁)という記述も不適切です。直前で鑑真の弟子の思託に触れているように、思託そして思託と親しかった淡海三船が慧思後身説を強調して太子顕彰を推し進めたのであって、鑑真自身が伝記を作成したわけではありません。他にも問題がありますが、やめておきます。

 『日本書紀』が聖徳太子を造型したと述べた部分の後では、伝説化が進んだ伝記が寺院で語られ、絵にも描かれ、像も造られるようになり、ライバル寺院間で相手の言い分を否定ないし吸収して伝記が拡張されていったことや、太子信仰と浄土信仰が結合したこと、「天皇の代理者」という太子の性格によって太子信仰が天皇制を支える要因になったことなどが説かれています。

 聖徳太子に関わる「参考文献」としては、上で触れたように、大山氏、吉田氏、そして若い頃、両氏にお世話になった榊原史子氏(こちら)のものばかりあげており、知らないでこれらを読む人は、ここで説かれている「いなかった」説は、この10年以上、学界では相手にされておらず、最近では吉田氏自身によってさえ主張されていないことが分からないことになります。 

 吉田氏は、後代の四天王寺の聖徳太子信仰などについては、文献調査に基づく有益な論文も書いているのですから、研究者としては、過去の誤りは明確に認め、聖徳太子に関する現在の研究状況を知らせるべきですね。今回の概説は、聖徳太子は仏教興隆の最初期には活動しておらず、伝説はすべて『日本書紀』が作り出したものだという印象を与えようとする意図的な書き方をしたものでした。誤解誘導型概説と呼ぶべきでしょうね。

 最後に毛利光氏の初期寺院表を少し訂正しておきます。Ⅲ期に「木之本廃寺(百済大寺)」とありますが、舒明天皇が造営した百済大寺は現在では吉備池廃寺と考えられています。『大安寺資材帳』では、舒明天皇がまだ田村皇子であった時、臨終に近い厩戸皇子を見舞ったところ、熊凝道場を授けられ、後に百済川近くに百済大寺を建てたとしていますが、吉備池廃寺からは斑鳩寺第Ⅱ期の瓦が出土しています。

 また、表に入っていませんが、熊凝道場の後身であって、後に移転して百済大寺となったとも言われる斑鳩南東の額田部町の額安寺(額田寺)では、斑鳩寺第Ⅰ期の手彫り忍冬文軒平瓦と同じものが出ています。ということは額安寺は斑鳩寺の創建よりやや後に、その瓦を供給されて建立されたことになります。

 太子の熊凝道場→百済大寺という流れは、後代の伝説扱いされてきたのですが、太子の斑鳩寺→熊凝道場(額安寺)→百済大寺(吉備池廃寺)という流れが瓦から跡づけられるのです。また、舒明天皇が百済宮と百済大寺を平行して建てたのは、斑鳩宮と斑鳩寺の形に基づくというのは、多くの研究者が認めていることです。

 吉田氏は、斑鳩寺の創建が遅いことを示そうとして考古学の成果を調べたようですが、『日本書紀』以前の厩戸皇子の活動に関わるこうしたことは、概説では触れないんですね。

【追記:2023年3月28日】
寺の説明を補足し、太子の呼称の違いを具体的に記したほか、文体の違いを示す際、和習と同様の性格を持つ外国人らしい例を加えるなど、多少補訂しました。

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