聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

自説に都合が悪い説は無視した聖徳太子研究史:吉田一彦「聖徳太子研究の現在と親鸞における太子信仰」

2021年11月06日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一氏の聖徳太子虚構説はその無理さが知られるようになり、学界では相手にされていない状態が10年以上続いているうえ、大山氏の盟友として虚構説を支えてきた吉田一彦氏は、次第にこの問題から撤退して触れないようになってきているため(一例は、こちら)、今後はとりあげない予定でした。

 ところが、「聖徳太子 研究動向」などで検索すると、真宗大谷派(東本願寺)の雑誌である『教化研究』の聖徳太子特集号に掲載された講義録、

吉田一彦「聖徳太子研究の現在と親鸞における太子信仰」
(『教化研究』166号、2020年7月)

が上位でヒットするせいか、ある人から「これが最新の研究状況を伝えていると考えていいんですか」と尋ねられました。この号には、私の講義録「聖徳太子といかに向き合うかー小倉豊文の太子研究を手がかりとしてー」(こちら)も掲載されています。

 ですから、刊行された際、吉田さんのこの講義録もざっと読んだのですが、吉田さんは虚構説にはあまり触れないようにし、軸足を親鸞の太子信仰の方に移そうとしているようなので、このブログでは取り上げずにきました。しかし、改めて読み直してみると、問題が多いため、やはり指摘しておくことにします。

 まず、「はじめに」に続く項目は、「聖徳太子(厩戸皇子)に関する資料」です。しかし、吉田さんは、「聖人としての<聖徳太子>は捏造であって、そのモデルは、国政に参加するほどの力はなかった厩戸王だ」という大山説を補強する立場で活動してきました。

 「厩戸王」については、すぐ後のところで、「小倉豊文は……「厩戸王」と呼ぶべきだと論じました」と述べており、実在人物としての「厩戸王」と信仰上の存在である「聖徳太子」は区別すべきだと論じたとしています。「厩戸王」の語は古代の文献には見えず、小倉が推定した名であることは古代史の太子関連論文で指摘されたことがなく、私が気づいて強調してきたことですが、それには触れません。

 そもそも小倉は「厩戸王と呼ぶべきだ」などと言っていません。斑鳩の地で「世間虚仮」とつぶやいた太子を敬慕しつつ過剰な伝説を排除しようとする小倉は、『増訂 聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、1972年)では、「私は「厩戸王」というのが生前の称呼ではなかったと思いますが」(22頁)と述べるのみで論証は示さず、「私の求めるのは、あくまでも歴史的実在としての「人間」聖徳太子なのです」(17頁)と述べるにとどまっており、「厩戸王」という呼称の論証はできないまま亡くなりました。

 つまり、小倉は「聖徳太子」伝説に縛られずに研究しようとし、実際の生前の名は「厩戸王」と思われるとしただけであって、実在人物である「厩戸王」と信仰上の存在である「聖徳太子」を区別すべきであるということを強調したのは、小倉説を受け継いだ田村圓澄ですね。この田村論文に引きずられ、大山氏などは「本名は厩戸王」と書いていたわけです。

 ついでに言うと、「聖徳太子」の語は『日本書紀』に見えないどころか、虚構派によれば太子に関する様々な捏造をしたとされる法隆寺の行信や光明皇后も「聖徳太子」の語は用いてないのですが、虚構派はそうしたことは指摘したことはありませんね。

 続いて、吉田さんは、『法華義疏』や「天寿国繍帳」について、「『日本書紀』以前に遡るものとは言いがたいと評価されます」と述べていますが、これも古い説ですね。最新の研究状況は紹介されていません。研究史をふりかえるという形にして、自説に有利な古い研究だけを紹介している印象を受けます。

 「津田左右吉の段階で、『日本書紀』の聖徳太子関係の記述の多くが編者による創作だという評価が下されました」とありますが、津田は太子の講経などは僧侶による創作と説いていました(こちら)。編者の作とは言っていません。

 しかも、津田は『日本書紀』の詔勅類は編者の作が多いとしつつ、「憲法十七条」は異質すぎるため、編者の作ではなく、「律令の制定、国史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりてかゝる訓誡を作らしめ」たのだろう(『日本上代史研究』岩波書店、1930年、188頁)と推測していました。

 「編纂中であった」ではなく、「企てつゝあつた時代」であって、他の箇所の記述とも合わせると、国史の編纂を命じた天武天皇あたりの頃を津田は考えていたとするのが史学界の常識です。『日本書紀』の「編者の創作だという評価が下されました」という書き方は不適切です。津田説について、自説に都合が良いように歪曲して利用する大山氏(たとえば、こちら)と同じやり方です。

 これは、720年に『日本書紀』が完成する2年前に唐から帰国した道慈が聖徳太子関連記述を書いたとする大山説、それどころか、仏教伝来に始まる仏教関連の記事はすべて道慈が書いたとする吉田説の残響でしょう。それだと、道慈は『日本書紀』の強力な編者の一人ということになりますので。

 三経義疏については、1975年の藤枝晃の中国撰述説を「画期的な研究」と紹介するのみです。40年近く前の説ですよ。変格語法が多いため中国作ではないことは、戦前から花山信勝が主張しており、私がコンピュータ分析によって補強して論証したのに(こちら)、まったく触れません。都合の悪い説は無視するのです。

 盟友である大山説については、さすがに紹介してありますが、森博達氏が、『日本書紀』の聖徳太子関連記述は文章が倭習だらけであり、唐に16年も留学した道慈が書いたはずがなく、大山説はまったくの妄想だと厳しく批判したことには触れません。森氏については、「憲法十七条」は天武朝以後に日本人が書いたと推測した、ということを紹介しているだけです。

 「天寿国繍帳」については、儀鳳暦を用いているから690年以後だとする金沢英之氏の論文を紹介していますが、2001年の論文です。以後、北康宏氏などの反論も出ていますが、むろん、紹介しません。なお、暦の面から見ても儀鳳暦を、それも複雑な計算法であって『日本書紀』も用いて以内儀鳳暦を用いていたかどうかは確定できず、可能性が低いことは、このブログで書いておいた通りです(こちら)。

 なお、道慈については、大山氏が『日本書紀』の太子関連記述は道慈の筆と説いたと述べていますが、自分自身、それに賛同して補強する論文をいくつも書いたことには触れていません。忘れたい過去なのでしょう。

 吉田氏に限らず、当時は大山説に賛成してその立場で書いていた人たちの中には、そのことに触れられるのを嫌がり、黒歴史として抹殺しようとする人もいます。そのうち、そうした人たちの例を示しましょうか。
 
 大山説や吉田説については、石井公成氏が盛んに反対する論陣を張っているとしていますが(有り難うございます)、「否定説、偽撰説は認められないとする見解を序論的に述べるという傾向があり、先行学説に対する実証的な批判は今後の論文発表に委ねられているように思われ」るそうです。

 大山説や吉田説の問題点はたくさん指摘してきてますが、これまで述べてきたように、それらは取り上げず、石井は見解を述べるだけで「実証的な批判」は無いということにされているみたいですね。「私の説に対する学問的な批判はまったくない」というのは大山氏の大好きなフレーズですが(こちら)、盟友の吉田さんもそれに近い言い方をするのか。

 ちなみに、出典と語法に注意しない虚構説派と違い、私はその面は徹底的に追求しますので、その結果、吉田さんのこの講演の後になりますが、そうした面の研究によって「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は同じ人が書いたとしか考えられないことが明らかになったことなどは、このブログで紹介した通りです(こちら)。

 「憲法十七条」と三経義疏は語法は異なる面もあるのですが、それは補助したスタッフが、「憲法十七条」では百済から派遣された儒教の学者、三経義疏では百済・高句麗から派遣された僧侶だったためと思われるため、これから細かく検討します。

 吉田さんは、古代については上記のような概略ですませ、『日本書紀』以後の太子信仰、そして親鸞の太子信仰について論じており、講義録の重点はそちらに置かれています。もともと、そうした方面をやりたかったようですので、「いなかった」説、それも自分自身がかなり関わった道慈執筆説からは静かに撤退し、太子信仰史の研究や、新しい発見を重ねられる神仏習合思想の研究に軸足を移したいのでしょう。
 
 それはかまいませんし、吉田さんの神仏習合思想の研究(吉田さん自身は「融合」の語を用いてます)などについては私は有益なものとして評価しており、このブログでもそう書いたのですが、今回のような書き方は感心できませんね。上記のように、自説に都合の悪い研究には触れず、自分がやってきたことを隠すというのは、いかがなものでしょう。
この記事についてブログを書く
« 法隆寺と百済人の密接な関係... | トップ | 『日本書紀』の記述を裏付け... »

論文・研究書紹介」カテゴリの最新記事