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「十七条憲法」は「群臣>百姓>民」であって有力家父長層の訴訟に対応:神崎勝「百姓制の成立ー十七条憲法と允恭定姓伝承ー」

2023年03月01日 | 論文・研究書紹介

 前回は、歴史的変遷を考慮しないトンデモ妄想の珍説でしたので、今回は、時代による用語の意味の変化に注意した着実な論考を取り上げます。

神崎勝「百姓制の成立ー十七条憲法と允恭定姓伝承ー」
(『妙見山遺跡調査会紀要』28[講座・古代王権の興亡 第2回]、2018年10月)

です。この紀要を所蔵している図書館は稀であるため、いろいろあった結果、駒大図書館のレファレンスカウンターのご配慮と、上記の調査会のご好意により、冊子を郵便振替用紙同封で直接送っていただくことになったうえ、この論文の元となった2本の論文のコピーも同封してお送りいただきました。有難うございます。

 その元論文とは、

神崎勝「十七条憲法の構造とその歴史的意義」
(『立命館文学』第550号、1997年6月)
同「百姓制の成立とその展開-七世紀における新興首長層の編成-」
(同・第559号、1999年3月)

であって、どちらも詳細で有益です。こちらは入手しやすいでしょう。

 さて、「憲法十七条」については、宮廷に仕える官人たちに対する道徳的訓誡であって法律ではない、いといった説も有力でした。「百姓制の成立ー十七条憲法と允恭定姓伝承ー」はそうした見解に反論し、当時の具体的な問題に対する対処が説かれていることを強調します。

 「憲法十七条」を読んでいて不審な点は、第四条が「百姓礼あれば、国家自ら治まる」と説いていることでしたが、これでその謎が解けました。

 そもそも中国の儒教は道徳教育を根本とする徳治主義です。ですから、「礼は庶人に及ばず、刑は君子(大夫)に至(上)らず」という言葉が示すように、民は無学であって動物に近いため、礼楽教育によって教化することはできず、刑罰でもって律するほかないとするのが原則です。民は尊重されますが、あくまでも、上位層が憐れんで養い育ててやるべき対象なのです。

 しかし、「憲法十七条」では「百姓」には礼が必要であることを強調します。このため、儒教を知らないで「憲法十七条」を持ち上げる一部の人が、「憲法十七条は、国民全体を道徳によって高めようとしており、画期的だ」などと論じるのですが、これは無理な議論です。

 「百姓」には、もろもろの官僚という意味と、民衆全体という意味がありますので、「憲法十七条」は前者の意味で使っているとする説もありました。ただ、『日本書紀』では「百姓」を国民全般の意で用いている箇所も多いため、「憲法十七条」のこの部分をめぐっては議論があったのですが、神崎氏は、その論争史を踏まえたうえで「百姓」の意味の変化を検討します。

 まず、『日本書紀』には「百姓」の語は100あまりも登場しており、「オホミタカラ」「タミ」と訓まれるのが普通だが、それだと意味が通りにくい箇所もあり、敏達天皇から斉明天皇にかけての時期、特に詔勅などの場合は、官人(臣連国造伴造)の配下に新たに任用された下級官人を指すと論じます。

 つまり、朝廷領と、それに属する部民を現地において掌握していた階層だとするのです。ただ、天智天皇以後、律令制が導入され、戸籍にによる人民の個別支配が進むようになると、「百姓」は一般良民を指すようになったとするのです。

 そして、「憲法十七条」では、「百姓之訟」をきわめて重視していることを指摘します。上(国司・国造)と下(百姓)が争うため、「民」が困るとしているのは、この争いが「民」の使役や貢納に関することであることが分かるとします。

 つまり、朝廷の役人として「民」を使役したり貢納させたりする役目である「上」(国司・国造)の者が私的にもそれをやって問題を起こしているのであって、第十二条が「何ぞ敢えて公と与(とも)に、百姓に賦斂せむ」と説いているのは、公私二重の「賦斂」が問題になっていたことを示すとするのです。

 第十二条以下はその副文であり、第十六条が「民を使ふには時を以てす」と述べているのも、この問題に関わると神崎氏は説きます。「憲法十七条」当時、この件がいかに問題となっていたかが分かりますね。神崎氏は、「憲法十七条」を単なる道徳的訓誡と見ることに反対するのですが、確かにこれは生々しい政治対応です。

 そう言えば、以前、このブログで紹介した宮地(鈴木)明子さんの論文は、『日本書紀』では「憲法十七条」の時から「公私」を問題にするようになったことを指摘したものでした(こちら)。

 そこで問題となるのが、『日本書紀』における「百姓」の語の用例です。勝崎氏は、いろいろな階層の人をならべ称する場合について3つに大別します。

 最初のAグループは、雄略紀から推古紀に見えるもので「臣連国造伴造」を基本としており、この下に「百姓」が付加される例は、百済の日羅が答えた文に見えるもので、本来Bタイプに属するものとします。

 次のBグループは、「臣連国造伴造ー百姓」が基本で「百姓ー民」と続くものであり、「憲法十七条」が初見であって孝徳紀に続くものであり、ここでの「百姓」は「官職と氏姓を賜って下級官人となった有力家父長たち」を指すとします。

 Cグループは、天武・持統紀では臣連伴造国造などの下位は「以下、庶人」「百寮并天下黎民」「及び百姓」「百姓男女」などとなっており、さらに『続日本紀』となると、「天下公民」「天下百姓」などと呼ばれるようになるものです。

 つまり、戸籍作成が進んだ結果、氏姓が授けられたのは官人だけでなく、一般民にまで及んだだため、下級官人だけを「百姓」と呼ぶのは実態に合わなくなったとするのです。ちなみに、神崎氏は、氏姓を授ける天皇と、奴婢などは氏姓がないことにも触れています。

 そこで問題になるのは、允恭紀が、帝皇の末だと称したり、天下ってきたと称したりする者たちがいて氏姓が乱れ、「百姓」が確定していなかったため、允恭天皇が、味橿丘に釜を据えて盟神探湯を行わせたという記述です。

 これも諸説ある記事ですが、通説ではこの伝承は、推古朝における百八十部の編成にともない、その由来譚として構想されたとされています。神崎氏は、「百姓」の語は「十七条憲法」で確立し、こうした用い方は推古~皇極・斉明朝に限られるため、允恭天皇の定姓伝承は、允恭朝に何らかの形であった氏姓関連のトラブル対応に関する伝承を、推古朝頃になされた史書編纂の過程で「百姓」を定めた事件として記録したものと推測するのです。

 允恭紀の記述については更に検討していく必要があるでしょうが、以上の神崎氏の検討のおかげで、「憲法十七条」は単なる道徳的訓誡ではなく、推古朝当時の社会的問題に対処するための具体的な方策であったことがはっきりしましたね。

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