聖徳太子研究の最前線

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『新修 斑鳩町史 上巻』(7):古代編「斑鳩とその周辺の氏族・斑鳩とその周辺の部民」

2023年03月13日 | 論文・研究書紹介

 続きです。今回は、『新修 斑鳩町史 上巻』古代編第一章のうち、鷺森浩幸氏担当の

「第三節 斑鳩とその周辺の氏族」
「第四節 斑鳩とその周辺の部民」

です。

 最初の第三節は、蘇我氏で始まります。ただ、蘇我氏は大化の改新クーデターで没落したのではなく、その後、石川氏と改姓し、奈良朝に至っても有力貴族であり続けたという点が中心です。蘇我氏の起源に関する諸説は説明されず、欽明朝から推古朝にかけての活動については、紀氏のところで述べられるという不思議な形になっています。

 斑鳩西北の平群氏については、葛城氏や和珥氏のように大王家と婚姻関係を結んだ形跡がなく、また同族や部曲も少ないため、早い時期から中枢で活躍したとする伝承は疑わしいとします。

 平群氏の同族の馬御樴(みくい)連は『新撰姓氏録』の「馬工(たくみ)連」にあたると思われ、「みくい」は恐らく馬柵ないし馬をつなぐ杭のことと思われ、平群氏が馬の飼育をしていた根拠となるとします。ただ、平群氏は馬の飼育をおこなっていたものの、大王家の馬の管理をしたのは「馬飼」であって平群氏ではないと説きます。

 紀氏については、紀州を本拠とする集団の一部が平群に移住して紀臣となったとされるとし、6世紀後半から紀氏の豪族としての地位向上が画期的に上がったとされると述べます。その紀氏が挑戦半島への出兵に関わったのは、紀ノ川河口部は、瀬戸内海の海上交通の東南端であったためであるとし、また山地を背景とした紀氏の造船能力にも注目します。

 他の豪族との関係については、紀氏は大伴氏氏と密接に結びついており、6世紀中葉には蘇我氏とも密接な関係があったうえ、大伴氏が没落していくと蘇我氏との関係を深め、蘇我氏の力の源泉の一つとなったと説きます。

 神祇関連を担当した中臣氏については、河内に集中して分布しており、河内の豪族と婚姻関係にあったとし、河内を本拠とする物部氏と親密な関係にあったとします。そして、中臣〇〇という複姓を持つ氏族が多く、斑鳩に居住していた中臣熊凝氏については、熊凝という地名が熊凝道場を起源とする額田寺(額安寺)と関わることに注意します。

 ここで、鷺森氏が指摘するのは、中臣熊凝氏は『新撰姓氏録』によると、他の中臣習宜氏、中臣葛野氏とともに、物部(石上)氏の祖である饒速日命の後裔とされている点です。

 中臣習宜氏は、菅原(奈良市菅原町周辺)を本拠とし、中臣葛野氏は、山背の葛野に居住したと推定されます。すると、中臣熊凝氏と中臣習宜氏は、富雄川流域に住んでいたことになり、物部氏と関わるのは自然ということになるのです。

 また、中臣方岳(かたおか)氏は、片岡に居住した氏族と推測します。この地域には、雨と風をつかさどる広瀬神・竜田神が祀られていますが、中臣氏の同族である中臣志斐氏と中臣片岡氏のうち、中臣片岡氏は、風雨につながる片岡神社に関わるとともに、広瀬神・竜田神の奉斎にも関わったと推測します。

 次に大原氏は、法隆寺蔵(原文の「像」は誤植)「観音菩薩造像記」は、甲午の年に鵤大寺(法隆寺)の徳聡法師・片岡王寺の令弁法師・飛鳥寺の弁聡法師が父母への報恩のために仏像を造ったことを記しており、この三人は「大原博士」の一族であって、甲午の年は694年、「大原博士」は大原史氏のことと考えられています。

 奈良時代に法相宗の重要文献である『瑜伽論』を天平4年(732)に大原史氏の女性が書写したことが記録に残っており、法隆寺近辺で活動していたことが推測されています。こうした人々が、斑鳩の仏教を支えていたのですね。

 その他、聖徳太子が亡くなった飽波を氏とする飽波氏がおり、これと近い関係にあると思われるのが渡来系の東漢氏を構成する飽波村主です。

 「第四節 斑鳩とその周辺部民」が最初にとりあげるのは、山部です。「屋部」とか「夜麻」などの表記も同じものを指します。法隆寺所蔵の幡銘には山部を名乗る人名が見えていることが知られてます。山部の性格については諸説ありますが、それは山林の利用法が様ざまであるためとします。

 斑鳩の山部連が聖徳太子と強い関係を持っていたことは事実だとしたうえで、それは山部連が早くからこの地にいたためとします。

 鷺森氏が力を入れて記しているのが、名代・子代の刑部(おさかべ)です。聖徳太子に近い時代で重要なのは、敏達天皇の長子である押(忍)部彦人大兄皇子であって、有力な皇位継承候補であったようです。ただ、用明天皇が亡くなると、物部守屋に擁立されたらしいものの、死去したのか、姿が消えてしまいます。

 この押部彦人大兄皇子の子が田村皇子(舒明天皇)であって、忍坂王家と称されるこの系統は、上宮王家と違って蘇我氏と関係が薄く、この忍坂王家を支えたのが刑部でした。

 大化2年(646)に中大兄皇子が孝徳天皇に「皇祖大兄御名入部」を献上しますが、この入部は皇子のための名代・子代の意味を持ち、中大兄皇子が継承してきた部民であって刑部を指すという説が有力と述べます。この地域は、彦人大兄以来、その子孫たちにとって重要な拠点だったのです。

 忍坂以外では、斑鳩の南の広瀬もその一つでした。鷺森氏は、この点が斑鳩周辺に刑部が分布する理由と見ます。となると、斑鳩を拠点とする上宮王家の山背大兄と、その南の地も拠点としていた忍坂王家の田村皇子が、天皇後継という面以外でもライバルとなるのは無理からぬことですね。

 鷺森氏は、いろいろな部民について概説していますが、詳しく論じているのは丹比(たじひ)部です。『新撰姓氏録』によれば、斑鳩周辺にも丹比氏がおり、平群郡司としてある程度勢力を持ったことが推察されています。丹比氏は反正天皇の丹比宮と関わるもので、丹比宮は宣化天皇へ継承され、その皇后が橘の語を含む橘仲皇女でした。

 この橘にゆかりののある王族の系譜として、橘豊日尊、つまり用明天皇の系譜があります。用明の子が聖徳太子であって、その聖徳太子の妃が、『法王帝説』では「以奈部橘王」と帰され、『天寿国繍帳』では「多至波奈大郎女」と帰される女性です。このため、丹比宮とそれに付随するものが用明天皇→聖徳太子に領有された時期があったと考えられると、鷺森氏は説きます。

 また、設立の時代は太子以後になりますが、中の太子と呼ばれる野中寺は河内の丹比にあり、聖徳太子と関わりのある土地であったことは事実だろうとします。