聖徳太子研究の最前線

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『新修 斑鳩町史 上巻』(6):古代編第一章「斑鳩と記紀の伝承・斑鳩の歴史地理的環境」

2023年03月09日 | 論文・研究書紹介

 あまり連載が続きすぎてもと思い、少し間をあけましたが、ここで 

 斑鳩町史編さん委員会編『新修 斑鳩町史 上巻』(斑鳩町、2022年)

に戻ります。今回は、

鷺森浩幸「古代編 第一章 ヤマト王権と斑鳩」

の最初の部分です。

 まず、「第一節 斑鳩と記紀の伝承」では、斑鳩町域の東を流れる富雄川の中流地域が「登美(鳥見・止美などとも)」であって、神武天皇の東征伝承で重要な地であることに注意します。葦原中国に降臨した瓊瓊杵尊の子孫である神日本磐余彦尊は、日向を出発して瀬戸内海を経て大和に入り、神武天皇となったとされます。

 『日本書紀』では、神日本磐余彦尊が長髄彦との戦いで苦戦した際、金色の鵄(とび)が飛んで来て弓のはずに泊まり光輝いたため、敵軍は目がくらんだため、この地を鵄邑と呼ぶようになったと述べます。これが「登美」の由来ですね。

 この戦いに登場する饒速日命が物部氏の祖先とされるのですが、『古事記』と『日本書紀』の記述が異なっているうえ、表現が曖昧でよく分からないところがあるのですが、鷺森氏は、『日本書紀』の方が物部氏の祖としての饒速日命の地位を高く描いていることに注意し、この東征伝承が大王に軍事面で仕えた大伴氏や物部氏の存在と関わることは間違いないとします。

 このあたりの事情については、『先代旧事本紀』が詳しいのですが、平安時代に物部氏の関係者によってまとめられたものですので、馬子らの序とされるものも含め、事実でないことも含まれています。

 『新撰姓氏録』では「とみ」とつく氏が四氏あり、各地様ざまですが、もともとは登美地域に居住していたと推測します。ここで注目されるのは、守屋合戦で奮戦して戦死した迹見(とみ)首赤梼(いちい)であって、これも「とみ」氏です。

 長髄彦も『古事記』では「登美の那賀須泥毘古」と称されており、「登美」が本拠とされています。地域として問題はあるのですが、いずれにしても饒速日命や長髄彦の物語は、富雄川流域を舞台とするのが理解しやすいとします。

 次に、法隆寺のある平群の地については、日本武尊が都を偲んで歌ったとされる歌に「平群の山」とあることについて検討します。鷺森氏は、平群の山の歌は、本来は歌垣の場で歌われたものと見て、斑鳩町域の北に広がる矢田丘陵のこととします。つまり、奈良盆地の東方の「倭」の山と、西方の平群の山が対比されて歌われ、これ国(奈良盆地)の象徴とみなされていたとするのです。

 次に「第二節 斑鳩の歴史地理的環境」では、鷺森氏は、「氏」や国造制や屯倉について説明したのち、河内と大和の竜田を結ぶ山越えの道である竜田道などの道の説明に入ります。この竜田道は、重要な複数の道とつながっており、まさに交通の要衝です。

 推古16年に裴世清が来た際は、難波津から大和川を利用して大和に入り、海石榴市で船から上がり、小墾田宮に向かっています。18年の新羅・任那の使節も同じ経路ですが、大和川沿いの「阿斗」(現在の田原本町付近)で船から上がったと推測します。

 そして、こうした水運が主であり、それを補強する形で道路の整備が行われたと考えられるとし、大和川沿いの道から竜田道・太子道とたどるのは自然とします。

 次にその重要な大和川について見てゆきます。大和川は何よりも「王家の川」であったとし、磯城・長谷・磐余の宮をあげます。そして、大和川と佐保川が合流するあたりがヤマト王権の馬を養成した額田の牧であったとし、その仕事にあたってのが大和馬飼であったと見ます。斑鳩はこのすぐ隣ですね。

 当然、馬に関する技術もこのあたりで展開していくことになりますが、『日本書紀』では仁賢6年に高句麗が工匠の須流枳などが渡来したとし、その子孫が倭国山辺郡額田邑の熟皮(かわおし)高麗だとします。皮革加工職人ですね。

 このように、斑鳩の地は、早くから大王と結びついており、また馬と関係深かったのです。聖徳太子については馬に関連する伝承が多いのは、こうした状況を考慮して考えるべきですね。