聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

いま時、物部氏は寺を建てていたとする概説と、聖徳太子を「厩戸王」と記す概説(前回の続き)

2023年01月07日 | 論文・研究書紹介

 前回の続きです。

 新古代史の会編『人物で学ぶ日本古代史』シリーズは、どの人物をとりあげるか会員にアンケートをとって決めたそうで、意外な人物も含まれているうえ、参考文献を並べるだけでなく、簡単な紹介をつけてあって便利ですが、最新の内容になっていない項目も目につきます。その一例が、

榎村寛之「物部守屋-聖徳太子の仇敵と伝えられた大連-」

です。榎村氏は、守屋と仏教の関係について、以下のように述べています。

守屋の本拠の一つと見られる八尾市渋川(渋河家の所在地)に中河内最古級の寺院遺跡である渋川廃寺があり、またこの周辺が渡来系氏族の一大集住地だったこと、守屋の別宅を推古天皇元年(五九三)に官寺にしたとする大阪市四天王寺の創建時遺構が六世紀前半までしか遡らず、厩戸王子の合戦との関わりにも疑問が持たれることなどから考えても、物部氏排仏の物証は確認できないと言えるだろう。

 末尾の「参考文献」では、篠川賢『物部氏の研究』(雄山閣、2009年)、安井良三「物部氏と仏教」(三品彰英編『日本初期研究』第三冊、1968年)のみがあげられていますが、篠川氏の本では仏教との関係に触れていないため、上記の推測は安井氏の論文に基づいたのでしょう。

 しかし、渋川廃寺を調査した山本昭氏が、渋川廃寺の瓦は守屋が滅ぼされた後の推古朝のものであって、この地が聖徳太子の支配下に置かれた後に寺が建立されたとしていることは、このブログで紹介しました(こちら)。

 また、「四天王寺の創建時遺構が六世紀前半までしか遡らず」というのは、「七世紀前半」の誤りでしょう。

 榎村氏のこの項は、「仏敵とされてきたが、実際はそうでない」ということを強調しようとするあまり、調査不十分のまま問題のある記述となったように思われます。

 次に、中村友一氏の「蘇我稻目・馬子・蝦夷・入鹿ー権臣と大王家の鼎ー」は、『日本書紀』の記述を簡単にまとめつつ論じようとしたためか、最近の研究状況を説明する概説本としては説明不足の箇所が目立ちます。

天皇暗殺の非常事態の中で、固辞しながらも即位したのが初の女帝となる推古であり、元年(五九三)四月には厩戸皇子が「皇太子」に立てられ、かつ「摂政」となった。

という箇所がその一例です。『日本書紀』は崇峻を殺すことを推古が認めて命じたとされており、史実もその通りだったと思いますが、その場合、後継の天皇をまったく決めずにこうした暗殺がなされるとは考えられません。「皇太子」も「摂政」も当時の用語ではないですし、様々な説があるわけですから、それに近い立場になったとする説がある、といった程度にすべきでしょう。

 会の代表幹事である三舟隆之氏の「舒明天皇と山背大兄王ー皇位を争った二人と大化改新前夜ー」も、問題があります。「はしがき」で「厩戸王(聖徳太子)」と記していた三舟氏は、この項の冒頭では「推古の後継者は厩戸王であったと思われる」と書いてますが、古代の文献には見えないと指摘されている「厩戸王」を、2022年の段階で説明抜きで実名のように使うというのは、どういうことなのか。

 また、蝦夷が叔父の境部摩理勢を討った事件については、『日本書紀』の記述をそのまま紹介し、蝦夷は蘇我系の山背大兄を支持すべき立場でありながら、推古の遺詔やそれを支持する群臣を無視できず、「やむなく抵抗する叔父の境部摩理勢まで討たざるを得なかったのではないか」と述べたうえで、この事件については諸説があるとし、「ぜひ真相を明らかにする研究が現れることを期待したい」と、他人事のように述べている。

 この事件については、遺詔なるものの存在そのものが論義となっているうえ、このブログでも紹介したように(こちら)、即位の条件となる当時の婚姻関係に関する研究が進んでいるのだから、それを踏まえたうえでもう少し踏み込んだ推測を示すべきでしょう。

 また、舒明の百済大寺建立についてその意義を説く際、「従来寺院は祖先の追善供養のために造営されるものであって」と述べていますが、これは氏寺に象徴される氏族仏教から国家仏教へという田村圓澄の古い図式に基づいた言葉ですね。

 受容期の日本仏教では、寺は「君臣之恩」のために建立されたことは、推古紀の三宝興隆の記事が述べている通りです。この場合の「恩」は、パワーを意味します。仏教的な善行による功徳を君主は(七世の)父母に振り向ける戸、君主や父母のパワーが増し、それが臣下・子孫に及ぶのです。先祖供養の追善の面が強まるのは後代になってのことです。

 中国北地の造像銘では、まず皇帝の長寿を祈り、その後で没後か現存の父母の「奉為」を願う例が多いことは、このブログで紹介した倉本さんの研究(こちら)などが示している通りです。どうも、古い図式で論じている印象が強いですね。

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