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三経義疏を読まずに筋違いの断定をする聖徳太子概説:森公章「推古朝と聖徳太子」

2023年01月15日 | 論文・研究書紹介

 これまでは『人物で学ぶ日本古代史』シリーズでしたが、今回はその前に出た『テーマで学ぶ日本古代史』シリーズのうちの聖徳太子項目をとりあげます、

森公章「5 推古朝と聖徳太子」
(新古代史の会編『テーマで学ぶ日本古代史 政治・外交編』、吉川弘文館、2020年)

です。森氏は古代の外交史や天皇制に関する着実な研究で知られており、代表的な古代史研究者の一人ですが、この「推古朝と聖徳太子」には感心できない箇所が目につきます。

 まず、冒頭で「聖徳太子の位置づけ」を論じた部分では、本名は「厩戸皇子(うまやとのおうじ)」としており、『日本書紀』の表記である「皇子」に「おうじ」というルビを振っています。これは見識ですが、実はその確証はありません。

 「みこ」という和語は古くからあったでしょうから、「うまやとのみこ」ならありうるものの、皇子を「おうじ」と漢語で発音する場合、その前の語を和語で発音するかという問題があります。つまり、「重箱(じゅう・ばこ)」読みが古代からあったか、という問題です。「上宮太子」は「うえ(かみ)つみやのみこ」か「じょうぐう・たいし」でしょう。「厩戸」という部分にはそれ以外にも問題があることは、以前の記事で触れました(こちら)。

 次に、当時は皇太子制度はまだ確立していなかったとするのは通説ですが、「後代の職名から想起される摂政の役割も疑わしい」というのは、曖昧ですね。「摂政」という役職がなかったことと、そのような職務、そこまでは行かないにしてもかなり政治に関わる職務を担当していたかどうかは別の問題だからです。

 森氏は、厩戸が主体となったと記されるのは、大盾・靫・幡幟の製作、憲法十七條、そして『法華経』『勝鬘経』の講説と、『維摩経』を加えた三経義疏(さんぎょうぎそ)の作成などに限られ、対隋外交に関わった明証はないため、「儀礼の整備や仏教の研鑽に努めた人物像が浮かんでくる」と述べています。

 困りましたね。『日本書紀』があげているのは『勝鬘経』と『法華経』の講経だけであって、三経義疏の作成には触れていませんし、「ぎそ」は中国の注釈の呼び方であって、仏教経典の注釈は「ぎしょ」と発音します。仏教の素養、仏教への関心の弱さが見えてきます。

 しかも、森氏は、『勝鬘経義疏』について極似する敦煌本の『勝鬘経義疏本義』が知られ、「他の二義疏も中国南朝系の学僧の注釈の系譜を引き隋代に完成したものをもとにしたもので、独創的な内容ではない」と断言し、「実際には当時の学僧の学問的活動の成果とみるのがよい」と論じています。

 これによって、森氏は三経義疏を訓読本ですら読んでいないうえ、関連する近年の論文をきちんと読んでいないことが明らかになってしまいました。

 『勝鬘経義疏本義』というのは、『勝鬘経義疏』と良く似ており、『勝鬘経義疏』が「本義」と呼んでいる種本とも一致する箇所が多い注釈の断片(奈93)が敦煌写本中に発見されたため、藤枝晃氏がその注釈を仮に「勝鬘経義疏本義」と呼んだのであって、その写本は多くの敦煌写本と同様に前半が欠けていて題名は不明です。

 しかも、その注釈が、『勝鬘経義疏』の「本義」であるかどうかは論争になっていますし、敦煌は中国の西北に位置するため、当初は北地の注釈とされました。これが実は、南朝の梁の三大法師の注釈の佚文と説が一致するため、南朝の注釈が北地に伝わったものと解釈されるようになりましたが、森氏の上の説明を読む限りでは、そうしたことは分かりません。

 また、「他の二義疏も中国南朝系の学僧の注釈の系譜を引き隋代に完成したものをもとにしたもの」とは、どういうことなのか。『法華義疏』は、梁の光宅寺法雲の『法華義記』を「本義」としており、それ以外に引いている説も南朝の古い説ばかりであって、隋の注釈は反映してません。

 「隋代に完成したものをもとにしたもの」とは、どういうことなのか。三経義疏には隋から初唐にかけて活躍した三論宗の吉蔵の注釈に見える説と一致することが多いのですが、それは吉蔵が古い注釈をたくさん引用しているためであることが判明しています。

 三経義疏を厩戸を指導者とする学団の作とするのは、井上光貞先生の説ですが、これまで何度も書いたように、井上先生は奈93を含めた中国の注釈と三経義疏とを比較して読んだうえでその結論を導きだしていました。

  古代史学者がそこまで検討していたことに敬意を払うほかありませんが、井上先生が論文を発表していたのは50年近く前だったうえ、三経義疏は「私の考えでは」と述べている箇所が多く、集団の作とは考えにくいことは、花山信勝や田村晃祐先生の論文(このブログでも紹介しました。こちら)が指摘していました。

 さらに、私は、コンピュータを活用し、三経義疏はいかに変格漢文で書かれていて良く似ているか、しかも漢文を基調とした古代朝鮮の変格漢文とは異なり、『源氏物語』のようなぐねぐねした文章で書かれていることを指摘しました。また、私の研究を踏まえた木村整民氏は、三経義疏は同一人物が書いたものであり、隋以前の古い注釈を用いていることを明らかにしました(これも紹介ずみです。こちら)。

 現代の細分化された研究と違い、かつての日本の学者の研究はおおざっぱでしたが、彼らは儒教や仏教の素養があり、幅広い文献を原文や注釈で読んでいました。三経義疏は特殊な性格の文献ですので、すべての古代史学者がこれを綿密に読むのは無理ですが、読んでいないなら、自分が読んで確信したことであるように断定せず、「これこれの研究によると~と思われる」などと書くべきでしょう。

 ということで、森氏のこの概説のうち、仏教に関する記述はほとんど全滅でした。他の点では、さすがに勝れた指摘もなされているため、これについては続きの記事で紹介します。

【追記】
公開後、文章の面などを少々訂正しました。

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