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『日本書紀』の戒律記述から見て道慈関与を否定:直林不退「日本における戒律受容の始原」

2021年03月09日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事では、『日本書紀』の最終編纂段階において道慈が筆をとって聖人としての聖徳太子を創り出したとする大山説を更に進め、道慈はそれ以後も聖徳太子像を創り出す「総合プロデューサー」の役割を果たし続けたとする本を紹介しました。聖徳太子の臨終の様子と周囲の祈願を記した法隆寺の釈迦三尊像銘は、道慈が太子の死に託して長屋王一家の悲劇を描いたものだとする珍説奇説です(こちら)。

 その道慈の『日本書紀』関与を、戒律関連の記述を検討して明確に否定しているのが、

直林不退『日本三学受容史研究』「Ⅱ 日本における戒律受容の始原 第三章 古代史史料と戒律」
(同朋社、2012年)

です。

 直林氏は、仏教の基本となる戒(律)・(禅)定・(智)慧の三学、とりわけ戒律が日本でどのように受容されたかを調査してきた研究者です。

直林氏は、『日本書紀』の仏教関連記事を検討し、戒律に関する記述は少ないものの、戒律が広がっていく様子を描こうとする姿勢が見られると説きます。ただ、伝統的な具足戒(=律)と大乗仏教の理念的な菩薩戒の全体象を把握していた『続日本紀』に比べ、『日本書紀』の仏教記事を書いた人の戒律理解は不十分であって、日本における戒律軽視の状況に対する批判も見られないと論じます。

 むろん、中国でもインドの戒律は正しく理解されていませんでした。そもそも、良き習慣・心構えである「戒(シーラ)」と、教団の罰則規定である「律(ヴィナヤ)」は別のものですが、中国ではこれがきちんと区別されずに「戒律」という言葉が生まれ、律と共通する性格を持つ戒経が作られ、また戒も律も正しく守らない仏教徒がかなりいました。そうした状況を厳しく批判したのが、長いインド旅行から帰国して『根本有部律』を新たに訳した義浄(635-713)です。

 問題の道慈は、長安における国際仏教センターであって義浄も身を置いていた西明寺に留学しており、しかもそれは『根本有部律』が訳された直後の時期でした。『続日本紀』の道慈伝によれば、道慈は唐から帰国した後、『愚志』を著し、現在の日本の仏法のあり方は唐の仏教と全く異なっており、これでは仏教の力は発揮されないと、厳しく批判していました。

 これは義浄の姿勢と一致しています。このため、直林氏は、『日本書紀』に見える戒律関連の記述の特色と道慈の立場は「全く符合していないといえる」(188-189頁)と断定しています。実際、道慈は長屋王の詩宴の誘いを断った際に送った漢詩の序では、出家と在家は立場が違うと断言しており、漢詩の末尾では「何煩入宴宮(どうしてわざわざ宴会をする宮に入ったりしようか!)」と述べてしめくくっていました。

 小島憲之先生は、この詩と序は道慈が大げさにことわってみせただけで冗談のようなものと見ておられたようですが、三論宗の特徴や道慈の伝記を見る限り、そのようには受け取れません。

 道慈については、義浄が訳したばかりの『金光明最勝王経』を日本にもたらし、この新訳を用いて『日本書紀』を潤色したという井上薰氏の説があります。これが大山氏や吉田一彦氏の道慈重視の根拠となっているのですが、直林氏は、井上説に反対する朝枝善照氏などの主張に賛同しており、『金光明最勝王経』の利用は道慈とは関係ないとしています(196頁)。

 そもそも、『日本書紀』で『金光明最勝王経』を利用している箇所は、既に複数の研究者によって明らかにされていますが、肝心の推古紀では利用されていないことが知られています。道慈が最新の『金光明最勝王経』を用いて仏教記事を潤色したのであれば、どうして厩戸皇子を聖人として描く最も重要な推古紀で、最新の『金光明最勝王経』の表現を用いなかったのか。不思議ですね。

 大山氏は、こうした点については指摘されても応答していませんが、実際には、変格漢文の多さという点だけでなく、戒律面でも道慈の『日本書紀』関与は否定されているのです。

【付記:2021年3月20日】
直林氏について、働き盛りで亡くなった朝枝善照氏と混同して誤ったことを記していたため、訂正しました。申し訳ありませんでした。
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