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「天寿」の語を考える際に参考になる中国の造像銘:倉本尚徳『北朝仏教造像銘の研究』

2022年12月05日 | 論文・研究書紹介

 「天寿国繍帳」とその銘文については、盛んな議論がなされてきており、このブログでも何度もとりあげてきました。この繍帳と銘文に関する数多い論点のうち、「天寿国」とは何なのかに関する論争史については、大橋一章『天寿国繍帳の研究』(吉川弘文館、1995年)が詳細な検討をしています。

 しかし、無量寿仏(阿弥陀仏)の極楽浄土なのか、弥勒菩薩がいる兜率天なのか、一般的な「天」ということであって曖昧なのか、といった諸説が乱立しており、決定には至っていません。

 私自身は、「天寿国繍帳銘」は、釈尊が亡き母のいる天に登って法を説いて恩返ししたとする中国成立の経典、『大方便仏報恩経』を利用しており、法隆寺金堂釈迦三尊像も同様であることを発見しています(こちら)。

 この場合、釈尊が母に説法しに出かけていった天は、地上の人、それも神通力を持った修行者の目にも見えないことが強調されている点は「天寿国繍帳銘」と共通するものの、その天で間違いないとは言い切れません。

 「天寿国繍帳」は女性が描かれているため、女性はいないはずの阿弥陀仏の極楽浄土とは異なるはずですが、極楽浄土のような図柄や、中国の不老不死の仙人の世界のような図柄、その他の図柄を含んでおり、決めがたいためです。

 逆に言うと、いろいろな面が混在しているのが「天寿国繍帳」だということになります。この点を考えるうえで有益なので、中国の南北朝期の浄土信仰は極楽か兜率か釈迦か阿弥陀かといった教理論では片付けられないことを指摘した仏教美術史の久野美樹氏の研究であり、また阿弥陀仏の浄土の信仰と兜率天の信仰その他が混在している北朝の造像銘について検討した、

倉本尚徳『北朝仏教造像銘研究』
(法藏館、2016年)

です。倉本さんのこの大判の本は、本文と「あとがき」だけで701頁あり、電話帳を思わせるような重い大著です(ご恵贈、有難うございます。紹介が遅くなりました)。この本では、北朝の碑文を精査し、皆で協力して造像をおこなった地方の信者結社や石柱に仏像と道教の神像が一緒に刻まれている例を報告するなどしており、学僧の教理文献を読んでいるだけでは分からない当時の庶民信仰の実態が明らかにされています。図式先行の論文と違い、残されている「もの」に向かい合った着実な学問成果です。

 この本で「天寿国繍帳銘」に関わるのは、「第七章 北朝・隋代造像銘に見る西方浄土信仰の変容ー『観無量寿経』との関係を中心にー」です。

 倉本さんは、造像銘から生天・往生浄土を表す用語を地域と時代ごとに分類します。そして、時代が下るにつれて、天に関する用語が減少し、浄土を示す語が増えていくとします。これは、浄土信仰が広まっていくにつれて、理解が進んだということですね。

 理解が進む前については、釈迦像や弥勒菩薩像を造って西方浄土に生まれることを願う例なども多かったことが指摘されています。

 さて、倉本さんは、北朝の造像碑文に最も多く登場する定型句は「亡者生天」であると指摘した後、「西方」とか「妙楽」などのように、極楽浄土を思わせる言葉が用いられていても、実際には弥勒菩薩の兜率天がこの世界の真上でなく、天上の西方にあると考えられていたことも考慮する必要があるとします。

 この点について言及しているのが、久野美樹氏の研究であって、それによれば、北魏の498年に造られた観音像には、鳥に乗る菩薩とそれを見上げる供養者が線刻されており、西方浄土に往生するのは天の西の方に飛んでいくと考えられるのであって、道教の昇仙思想の影響も見られるそうです。

 極楽浄土ははるか西にあるのであって、上にあるわけではないですから、「上生」とか「昇る」とかの語が見られる場合は、注意する必要があるわけです。

 倉本さんは、往生した先で出逢う仏についても、北魏時代は「諸仏」とかの例が多いのに対し、「弥勒」や「無量寿仏」などの具体的な仏の名をあげた例は少ないことに注意します。仏教受容期ということなんでしょう。北魏時代は「天宮」という語が多いものの、それ以後は減るそうです。

 北魏時代には阿弥陀仏と記してあっても、信仰としてはまだ曖昧であって、北斉あたりから「南無阿弥陀仏」という表現が出てくる由。そうして盛んになっていった西方往生信仰を示す典型的な表現は、「託生西方妙楽世界」であるそうです。

 ただ、北朝から隋になると、無量寿仏という名が減って阿弥陀仏という名が増えることが指摘されます。唐代には特にそうなりますが、これは仏教受容期の中国では、不老不死の神仙思想が盛んであって、極楽世界の阿弥陀仏も「無量寿」という点で歓迎されていたということですね。

 こうした諸例を見ると、極楽往生を願うか兜率往生を願うかなどをめぐって論争するのは、経論に通じた学僧の話であって、一般の人びとはもっと素朴でごちゃごちゃした生天思想を持っていたことがわかりますね。橘大郎女の思いを造型した「天寿国繍帳」も、おそらく同様なのでしょう。

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