聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子を含む2022年刊行の人物概説本:新古代史の会編『人物で学ぶ日本古代史1 古墳・飛鳥時代』

2023年01月03日 | 論文・研究書紹介

 歴史出版社である吉川弘文館が、一般向けに「人物で学ぶ日本古代史」というシリーズの刊行を始めました。その最初の巻が、 

新古代史の会編『人物で学ぶ日本古代史1 古墳・飛鳥時代』
(吉川弘文館、2022年)

です。

 古代の多くの人物が解説されており、聖徳太子や関連する人物としては、「Ⅰ ヤマト王権の形成」では欽明天皇、物部守屋、善信尼、「Ⅱ 飛鳥時代の政争と人物」では蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿、推古天皇、聖徳太子、舒明天皇・山背大兄、鞍作止利、などが取り上げられ、それぞれ異なる研究者が4頁から10数頁ほどの長さで執筆しています。古代人物辞典を読みやすい形にした本という感じでしょうか。

 会の代表幹事である三舟隆之氏の「はしがき」によれば、2020年に刊行した新古代史の会編の「テーマで学ぶ日本古代史」シリーズは、「最新の研究成果を分野別に学生や初学者にわかりやすく解説し、さらにそこから楽しく古代史の世界に入っていけるように心がけ、主要な参考文献の紹介を盛り込んだ」ものであり、今回はそれを人物ごととし、生き生きした形で紹介しようとしたそうです。

 ただ、読んで見ると書き方と質と量は執筆者によって様々であり、『日本書紀』の関連記述を簡単にまとめて少し説明を加えただけであって、「最新の研究成果」を解説したとは言いがたい項目も目につきます。

 原稿の締め切りがいつであったのか知りませんが、この「聖徳太子研究の最前線」ブログをこまめに読んでいる読者なら、「どうして、あの論文を紹介しないんだろう?」と思う場合もしばしばあるでしょう。

 何回かに分けて紹介しますが、最初はまず聖徳太子その人について現在の研究成果に基づく穏健な概説となっている、

鷺森浩幸「聖徳太子ー真実の姿はどこに?ー」

からです。

 鷺森氏は、まず太子の多様な名から話を始め、生前の名は「厩戸豊聡耳」であろうと述べ、「上宮」も生前から使用されただろうとしたうえで、この項では広く通用している「聖徳太子」を用いると述べており、「厩戸王」には触れません。これは、三舟氏の「はしがき」では、高校の教科書を意識したのか、「厩戸王(聖徳太子)」となっているのと違い、私の本などを読んでいるからですね。末尾に付された「参考文献」は、次のようになっています。

 石井公成『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』春秋社、二〇一六年
 大平聡『聖徳太子-和国の「大国」化をになった皇子-』山川出版者、二〇一四年
 新川登亀男『聖徳太子の歴史学-記憶と創造の一四〇〇年-』講談社、二〇〇七年
 曾根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』吉川弘文館、二〇〇七年
 東野治之『聖徳太子-ほんとうの姿を求めて-』岩波書店、二〇一七年
 吉村武彦『聖徳太子』岩波書店
   ・右六点は現在の到達点がわかる概説書。それぞれに得意分野があり、引きつけられる点がある。
 法隆寺編『法隆寺史 上 古代・中世』斯文閣出版、二〇一八年
  ・最近出版された法隆寺の通史、聖徳太子・法隆寺研究の今がみわたせる。
 『新修 斑鳩町史 上巻』斑鳩町、二〇二二年
   ・聖徳太子・法隆寺も含めて広くこの地域をみる。
 北康宏『日本古代君主制成立史の研究』塙書房、二〇一七年
 鷺森浩幸『日本古代の王家・寺院と所領』塙書房、二〇一七年
 本郷真紹編『日本の名僧一 和国の教主聖徳太子』吉川弘文館、二〇〇四年

以上です。

 2017年、2018年、2022年の書物があげられているため、最近の研究成果を考慮して書かれていることが分かります(拙著を挙げてくださって有り難うございます。ただ、個人のブログは、停止したり URLが変わったりするため、「参考文献」としてあげるのは難しいでしょうが、最新の研究成果が示されているのは、古代史、仏教史・仏教学、美術史、考古学、建築史などの最近の論文を紹介しているこのブログですね)。

 さて、鷺森氏は、「厩戸」については、「戸」を坂の入り口と解釈し、阿直伎が馬を飼育したとされる厩坂のことだとする説を紹介します。ただ、賛否は分かれるとしたうえで、馬と関係深いのは事実であり、むしろ馬が飼育されていた「額田」の地を考慮すべきだと説きます。推古天皇がこの地と関係深く、またこの地の額田部氏は馬と関わりが深いためです。

 政治面での活動については、推古朝を太子を軸として見ることは否定されているとし、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子を中心とすると見るのが普通であって、どの人物に比重を置くかは研究者によって異なると述べます。ただ、推古も太子も蘇我系であることを重視するのはほぼ共通するとします。

 「憲法十七条」については、冠位十二階と関連しており、用語面はともかく、内容はほぼ当時のものとして承認するのが学界の傾向だとし、「憲法十七条」は太子自ら定めたと明記される数少ない政策の一つであることに注意します。

 法隆寺金堂の薬師如来像は七世紀後半の法隆寺再建頃の作とされているため、その銘は時代が合わないとします。釈迦如来像銘については光背作成時のものとする東野治之の論を紹介し、天寿国繍帳銘については、「天皇」の語が見えるため議論になっているとして研究状況に簡単に触れますが、この辺りは簡単すぎてわかりにくくなっています。

 この本は、研究状況の概説が主であって、執筆者氏自身の私見を述べるものではないですが、簡単な証拠をあげたうえで執筆者の考えを示す部分がもう少しあっても良さそうに思われます。語句の断片的な解釈では不十分であるうえ、「現在の水準はそれを超える」と述べていますが、どう超えているのかを示さないと読者に不親切でしょう。

 斑鳩については、道路が敷設され、地割と呼ばれる地制が施行されたと思われるとし、若草伽藍や太子道(筋違道)の方位と一致すると述べ、これは開発計画に基づくものであり、「隋や朝鮮半島諸国との外交を意識した都市の建設という意義を持つだろう」とし、「聖徳太子が斑鳩で新しい文明を取り入れた、新しい宮殿と寺院、その周辺に広がる都市的な空間を作ろうとしたことは事実であろう」と結論づけます。

 ただ、最後の「聖徳太子と仏教」の部分は弱いですね。三経義疏や天寿国繍帳について諸説あることを紹介するのですが、三経義疏そのものの真偽論争と、『法華義疏』が自筆であるかどうかの議論などが明確に区別されておらず、曖昧な記述になっています。

 これは、近年の古代史研究者が、かつては必須の教養であった仏教や中国思想と縁遠くなったためですね。戦後の古代史学は専門分化し、細かい点の検討が進みましたが、仏教や中国思想を踏まえた研究は減ったように思われます、

 「憲法十七条」について最もバランスが良い研究は、日本思想史の村岡典嗣が戦時中におこなった講義です。村岡のように、中国古典や仏教の出典に注意しつつ注釈をつけられるような人でないと、「憲法十七条」を理解するのは困難でしょう。

 三経義疏についても同様です。をきちんと読んだうえで論文を書いたのは、井上光貞と曾根正人さん以外にどれほどいるか。たまに読んだ人がいたとしても、花山信勝の訓読版でのことのように思われます。

 しかし、太子礼賛者である花山の訓読本は、和習と誤字・誤記だらけの原文を、読みやすくて意味が通るように工夫してあるため、三経義疏をきちんと理解するためには、元の漢文で読む必要があります。その点、井上光貞は、『勝鬘経義疏』との類似が話題になった敦煌写本を含め、中国の注釈と比較して読んでいました。

 むろん、古代史研究者がすべて三経義疏を丁寧に読むのは無理でしょうし、鷺森氏は、諸説があるとしているだけで、大山誠一氏のように「~のはずがない」などといった断定はしていません。ただ、大山氏以外にもそうした人がまだいるため、近いうちにとりあげることにします。