聖徳太子研究の最前線

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上宮王家の大和側南岸進出:岡島永昌「西安寺からみた大和川の古代寺院」

2023年01月28日 | 論文・研究書紹介

 飛鳥を含む奈良盆地における重要な交通ルートの一つは大和川でした。蘇我氏系である上宮王家は、物部合戦の後、その北岸の斑鳩を中心にしてこの地に進出しましたが、南岸には蘇我氏系ではない敏達天皇の系統の王族が進出していました。

 この点がこれまで注意されてきたのですが、見直す必要が出てきたのは、南岸に位置する西安寺遺跡から、若草伽藍の瓦と同笵の瓦が発見されたためです。となると、南岸は敏達系がすべて押さえていたとは言えなくなるのです。

 この問題に取り組み、大和川周辺の古代寺院について検討したのが、

岡島永昌「西安寺からみた大和川の古代寺院ー法隆寺若草伽藍同笵瓦の検討を通じてー」
(『聖徳』第244号、2021年8月)

です。岡島氏は、この発掘調査をした王寺町文化財学芸員です。

 (同論文、4頁上)

 太子建立の四十六寺の一つとされている西安寺は、大和川から200mほどのところにあります。昭和59年の第一次調査では寺の遺構、平成27年の第二次調査では塔跡の心楚の抜き取り穴や楚石、基壇土などが検出された由。以後、令和元年の第九次調査までなされる間に発見が続きました。

 それによれば、塔の基壇は13.35m四方、建物は6.75m四方であって、現在の法隆寺の五重塔とほぼ同規模であって、造営尺は1尺が30.3cmであるそうです。この大きさは驚きですね。伽藍配置は、南を正面とする四天王寺式である可能性が高いとか。

 重要なのは、最初に述べたように、西安寺跡から出た瓦が若草伽藍の創建瓦である7Abと傷まで一致する同笵の瓦であったことです。また、若草伽藍の創建期の補足瓦である6Bと同笵の瓦も出ています。となれば、大和川南岸とはいえ、北岸の斑鳩を押さえていた上宮王家との関係を考えざるを得なくなります。

 ただ、塔と違って西安寺の金堂は規模が小さいため、金堂の建立は七世紀前半であって寺院の前身となる小堂であり、後に金堂の修理がなされ、さらに7世紀後半になって規模の大きな塔が建立されたのだろう、というのが岡島氏の推測です。

 西安寺跡の瓦で他に注目すべきは、忍冬蓮華文軒丸瓦です。これは軒丸瓦の蓮華文に忍冬文(パルメット)を付加したもので、中宮寺で最初に使用され、後に若草伽藍の補足瓦(33A)として用いられたものです。これと組み合う軒平瓦と同笵の瓦が斑鳩宮跡から出土しています。

 近年、この33Aと同笵の瓦が、滋賀県の蜂屋遺跡から出土しており、この近辺は法隆寺と関係が深く、聖徳太子との関係を強調する伝承を持った寺が多いことで有名です。太子の晩年の頃か、山背大兄の頃には、上宮王家の勢力が伸びていたということでしょう。

 さらに、西安寺跡からは、若草伽藍の6B・7Abと同笵の瓦も出ていますので、上宮王家との関係の深さは確実です。しかも、西安寺の西には、太子と飢人説話の舞台となり、山背大兄の妹である片岡女王との関係が推測されている片岡王寺が存在します。このため、岡島氏は、大和川南岸にもある程度、上宮王家が進出していたと見るのです。

 なお、西安寺の忍冬蓮華文の瓦は、相模国の宗元寺のそれと同笵であることが知られています。これについては、森郁夫氏が天武天皇の関与を推測していました。岡島氏も、7世紀後半になって西安寺に大規模な塔が造営されるのは、大和川沿岸で竜田の神、広瀬の神を祀り、竜田に関を置いた天武天皇が、交通の要衝であるこの地を押さえようとしたことと関連すると推測します。

 そして、古代の寺は軍事拠点としての役割を果たしていた(こちら)ことから見て、西安寺の北側、つまり大和川と西安寺の間にかなり広い空間が確保されているのは城塞の機能を果たしていたと見ることも可能かもしれないとし、今後の調査に期待しています。

 こうした研究によって、上宮王家がかなりの土地を押さえ、経済力をつけていったことが分かってきますね。また、推古朝の末には「四十六」の寺があったという『日本書紀』の記述は疑われることが多かったのですが、意外に正確かもしれないことが見えてきます。

 塔や金堂や回廊などを供えた伽藍ではなく、飛鳥周辺の豪族の邸宅の中の建物を一つ二つ改装して小型の仏像や仏の画像を安置したり(これが大規模な改築になると、捨宅寺院ということになります)、邸宅のそばに瓦で葺かれた小さな仏堂を建てた程度であれば、推古朝末年までに主要な豪族がやっていても不思議はないからです。

 以前、誓願論文などで述べたように、中国の北朝でも古代日本でも、寺や仏像を造ってその功徳によって帝王の長寿を祈る(あわせて自分の父母・祖先などの往生や自分たちの現世利益も願う)のは、忠誠の証明でした。