聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

義疏の内容に踏み込んだ田村晃祐「『法華義疏』の撰述とその思想(序)」

2020年08月12日 | 三経義疏
 筆者は現在、オランダのBrill社が刊行中である Brill's Encyclopedia of Buddhism のうち、Buddhism in Vietnam という項目を悪戦苦闘しながら執筆する一方で、東大寺凝然の700年遠忌記念として来年刊行される論文集に寄稿するため、凝然の三経義疏研究に関する論文を書いています。凝然は、自ら「三経学士」と称したほど三経義疏研究に打ち込んだ大学僧です。

 前者では、現在のベトナム中部にあたるインド文化圏のチャンパ(林邑。後の環王国・占城)や、チャンパと関係深いジャワの密教についても調べているのですが、こうした東南アジアのインド文化圏諸国では、国王はヒンドゥー教の神か、ヒンドゥー色の強い密教系の観音菩薩を守護神とし、かつそうした守護神と一体視されることによって権威を保っていました。

 倭国が手本とした隋の文帝なども、梁の武帝を継承して菩薩戒皇帝を自称し、仏教に関する様々な奇瑞があったと宣伝し、また宣伝させ、自らを聖なる存在として権威づけをはかっていました。古代とはそういうものなのです。また、そのように描くのが当時の常識というものです。たとえば、梁の武帝に朝貢した婆利国の上表文では、「伏して惟うに、皇帝是れ我が真仏」と賞賛していました
(河上麻由子「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について」『史学雑誌』117(12), 2008年、28頁。こちら)。

 聖徳太子は、蘇我馬子のような一番の実力者ではなかったものの、その補佐役であって次代の天皇候補者であったのですから、生きているうちは普通の人間とみなされ、死後かなりたってから神話化が進んだなどというのは、古代というものを理解していないからこそ出てくる議論です。

 さて、前の記事で紹介した聖徳太子講義では、三経義疏のうち、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』は太子の作と見て間違いないとし、「師匠が講義する種本の注釈をまとめつつ、自分の解釈をはさみ、時に種本説に反対して見識を示すといった感じ」と述べ、こうした注釈書作成は「国威発揚の一助でもある」ことに触れました(61頁下)。これは、梁の武帝やその息子の昭明太子の経典講義がそうしたものだったためです。

 津田左右吉は、中国についても日本についても幅広く知っていたため、太子の経典講義は、そうした事例に基づく作文である可能性を示唆したのですが、実際にそうした事例をまねたものと見る方が妥当です。このことは、種本と比較しつつ、三経義疏を和習だらけの原文(漢文)で読んでみれば分かります。太子礼賛者であった花山信勝が苦労して読みやすくした訓読文しか読んでいない最近の歴史研究者には、和習の部分は見えません(津田は原文をざっと読んでいたようです)。まして、訓読さえ読まずに聖徳太子本を書いている人たちは論外です。

 凝然の三経義疏研究に関する論文を書くため、近年の三経義疏に関する論文を調べてみたところ、内容に踏み込んだ論文はきわめて少ないのが実情のようです。そうした状況にあって、今でも有益なのは、

田村晃祐「『法華義疏』の撰述とその思想(序論)」
(『日本仏教綜合研究』 3号、 2005年、PDFはこちら

でしょう。

田村先生は、『勝鬘経義疏』に関する藤枝説を更に拡大して三経義疏は中国製だと論じた大山誠一説を検討し、その問題点を具体的に示しつつ「無定見」「研究史無視」「他説の曲解」などの特徴を指摘しています。また、『法華義疏』については、種本について「ここは奥深すぎて分からない」などと率直に述べている部分があること、「私の懐(こころ)」「私の釈」など、「私」の語を盛んに用いて解釈していることをなどをあげ(これは、花山信勝が既に述べていたことですが)、太子が保護した学僧の顧問団の作とする井上光貞氏の説を批判し、「多くの朝鮮人学僧の共同著作ではなくて、何人かの諸種の傾向をもった学僧たちの顧問をもった個人の著作であると考える」(3頁下~4頁上)と述べています。

大山氏の師匠である井上光貞は、東大の国史の学生でありながら、印哲の授業にも出て学んでいました。仏教学の素養はかなりのものですし、『勝鬘経義疏』の種本と言われた敦煌写本が話題となると、その写本と『勝鬘経義疏』の原文を綿密に比較して読んでいます。このため、賛成・反対はともかく、井上は、考慮すべき説を数多く述べています。読まずに想像であれこれ論じるようなことはありません。

田村先生は、『法華義疏』が教判を説明する際、一初教、二波若教、三維摩教、五涅槃教に分け、その上で四として法花教を位置づけていることに着目します。これは、『法華義疏』の種本である梁の光宅寺法雲の『法華義記』が、道場寺慧観の有名な分類である、一有相教(小乗)、二無相教(般若)、三抑揚教(維摩)、四同帰教(法華)、五常住教(涅槃)という五時教判を、光雲が法華至上の立場から、一有相教、二大品経、三維摩経、四涅槃経、五法華経と改めたのを受け継ぎつつ、四とされた涅槃に五の番号を付けて慧観の古い教判に戻したものと見るのです。

 こうした点が、種本に大幅に頼りながら、ところどころで見識を示そうとする例です。

 ただ、田村先生は指摘していませんが、三経義疏は、大部な経典である『涅槃経』を尊重する学僧たちの詳しい注釈には通じていないため、『涅槃経』と『法華経』の同異に関する詳細な議論はしていません(と言うか、読んでないからできない……)。

 三経義疏は吉蔵(549-623)の三論学の影響があるとし、推古朝以後の作とする説もありますが、『涅槃経』の一切衆生悉有仏性説を重視して三論の空の思想と融合しようと努め、『法華経』も尊重していた吉蔵の直接の影響は、三経義疏には見られません。つまり、光宅寺法雲のような六世紀前半の梁の三大法師の注釈を種本とし、それを批判するというのは、7世紀初めとしては時代遅れです。

 こんな古くさい学風の注釈を、三論宗と法相宗が盛んになって教学が大いに発展した奈良時代になって作るのは不可能ですし(つい新しい用語や思想が入ってしまう)、種本を略抄した部分以外は「在」と「有」を混同するような変格語法だらけなのですから、中国製作のはずがありません。残る可能性は、百済/高句麗作、百済/高句麗の学僧(たち)が日本で作成、それらの学僧に習った日本人が作成、です。

 最後に、田村先生が「おわりに」の冒頭で説いている結論の最初の部分をあげておきます。

  (1)『原典』が第一の資料であり、原典の精読なくして論ずることはできない。

【付記】
同じ内容が貼り込まれていたため、訂正前の部分を削除しました。
ご指摘に感謝します。
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