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「法興」を私年号と称するのは適切か?:細井浩志「日本の古代における年号制の成立について」

2022年03月04日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺釈迦三尊像銘や伊予温湯碑は、「法興」という年号を用いていることで有名です。これについては、僧侶などの間で用いられていた私年号という扱いをされることが多いのですが、私年号と呼ぶことに疑問を呈した論文が出ています。前回取り上げた甘懐真氏の論文が掲載されている論文集から、もう1本紹介しておきます。

細井浩志「日本の古代における年号制の成立について」
(水上雅晴編『年号と東アジアー改元の思想と文化ー』、八木書店、2019年)

です。暦の研究者である細井氏については、前にも論文を紹介したことがあります(こちら)。

 細井氏は、唐の年号の多くは皇帝の徳を示す吉祥句の年号であり、高句麗や新羅の年号も吉祥句年号であったのに対し、8世紀の日本の年号は、対馬からの黄金の献上によって「大宝」とし、白亀出現によって「神亀」とするような祥瑞の具象的表記や、「太平」のようなめでたい字の句であったと指摘します。なお、「神亀」は、6世紀初めの後魏の年号と同じですね。

 8世紀以前の日本の年号については、『日本書紀』ではいくつかの年号が見えるものの、『日本書紀』の記述通り実施されたのか、過去に溯及して年号を与えた追年号かということで研究者の意見が分かれています。発掘によって出てくる木簡は、年号でなく、干支を記しているからです。

 ただ、いろいろ議論がある「大化」については、祥瑞年号が全盛だった8世紀に造作されたとは考えにくいため、細井氏は、同時代の唐・新羅・高句麗の影響で制定された可能性が高いとします。

 そして、『日本書紀』は、基本的には天皇の治世紀年で年代を定めているが、いくつかの倭国の年号については「拾って使い」、唐などの年号を用いると従属を意味してしまうため、そちらは捨てたと考えられると説きます。

 問題は、「法興」ですが、7世紀に存在したことは間違いないとしたうえで、私年号とする見解については、疑問を呈します。『日本書紀』では、「厩戸王」(細井氏は2019年段階でもこの呼び方を使ってますね)を天皇とは認定していない以上、彼を顕彰する年号は採用しなかったと考えることができるとします。

 「大宝」以前は国家的年号が成立していなかったとする説もあるため、「律令国家成立以前の年号を、公私に峻別することができるのかは問題である」(379頁)とし、これに近い見解は久保常晴『日本私年号の研究』(吉川弘文館、1967年)も既に述べていたと説きます。

 そして、「暦は百済から仏教文化の一部として倭国に伝播した」ため、「有力寺院など複数の場所それぞれで毎年作られ、使われた可能性が想定できる」(同)とし、同じ暦法を使っていれば、通常は同じ暦日になるが、計算の微妙な違いで、日付がたまに異なることもありうると注意します。

 そうした状況では、天皇(大王)が年号を定めても社会的に共有されにくく、口頭での伝達も多かった時代にあっては、「アカミトリ」と訓まれた「朱鳥」と類似する「朱雀」、「白雉」と類似する「白鳳」の混在のように、漢字表記すら統一できなかったろうと見ます。

 一方、逆に仏教僧などが新羅や唐の年号の知識に基づいて、「法興」などの年号を独自に定めた時、「それが仏教ネットワークで、天皇(大王)の定める年号より広範囲で使われた可能性がある」(580頁)以上、天皇を「公」、仏教や豪族を「私」とするのは、律令制定以後の秩序概念を遡及させてしまうことになると論じるのです。

 推測に基づくところがかなり多い議論ですが、それぞれの時代の状況を考える際は、後代の常識によって見てはならないということは確かでしょう。
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