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大兄とヒツギノミコは違うが、山背大兄は天皇に準じる存在であった厩戸を輔政?:中田興吉「王の後継者候補」

2022年03月24日 | 論文・研究書紹介
 前の記事で中田興吉氏に触れましたので、氏の聖徳太子関連の別の論文も紹介しておきましょう。

中田興吉「王の後継者候補ー皇太子制成立以前ー」
(『日本歴史』730号、2009年3月)

です。

 中田氏は、『古事記』景行天皇段では、80人の王子のうち、3人だけが「太子の名を負う」と記され、ヒツギノミコとされていることに注意します。そして、『日本書紀』応神40年正月戊申条では、天皇は莬道稚郎子を跡継ぎとしたいという心を常に持っており、大山守命と大以大鷦鷯尊に莬道稚郎子を「太子」とすることをどう思うか尋ねたうえで、莬道稚郎子を「嗣」としたうえで、「大鷦鷯尊を以て太子輔となし、国事を知らしむ(以大鷦鷯尊為太子輔之、令知国事)」としていることに通じると説きます。

 ミコの中から「太子」と補助する「太子輔」を選んでいるのです。「為太子輔之」の「之」は代名詞の「これ」ではなく、中止・終止の語気を示す用法であって、古代の韓国・日本に多い変格語法ですね。

 天皇後継のヒツギノミコについては、武烈天皇段が「此の天皇、太子无[な]し」と述べ、続けて、天皇が崩じたものの「日続を知る王を知るべき無し」と述べているため、「ヒツギ」は王位を継ぐことであって、「ヒツギ」と「ミコ」が重ねて用いらていれば、それは王の後継候補を指すことになるとします。

 なお、「太子」には「長子」の意味があることが指摘されていますが、中田氏は、「ヒツギノミコ」は必ずしも長子とは限らないと述べます。

 ここで「大兄」の語をとりあげます。中田氏は新羅の「大兄」に起源があるとする大平聡氏の説を初めとする諸説を紹介したのち、日本における確実な初例は継体朝の「勾大兄」に求められ、この大兄は大后とともに政治の中心を占めていたと考えられているとし、王の複数の配偶者の長子が大兄とされ、その半数が即位していると指摘します。

 そして、この時期には、王家以外には大兄と称された者はいないとしたうえで、すべての長子が大兄とされているのではないとし、特に資質があると認められた者のみが大兄とされたと推測します。

 そこで問題になるのが、厩戸の長男ではあっても天皇の長子ではない山背大兄王です。これについては、「厩戸が天皇に準じた地位にあった結果」だとする説に賛成し、厩戸が推古天皇を補弼したのがだ、「実質的な政務は厩戸が執っていた」のであって、「その厩戸をさらに山背は補政したことにより大兄とされ」、舒明朝・皇極朝になっても大兄という語を冠して記録されたのではないかとします。

 ただ、大兄のみが即位したのではないことに注意し、その例として長子でも大兄でもない敏達天皇と崇峻天皇をあげ、資質によって選ばれて即位したと推定します。他の有力候補である大兄が亡くなったとか、その時の王の長子が劣った人物だったといった特別な事情があるのでしょうが。

 このように、大兄は王の「有能な長子」であっても、継承候補者としての「ヒツギノミコ」とは異なっており、大兄はあくまでも大兄として王を輔政していたものの、実際には大兄の多くが即位しているため、同じ立場とみなされることも多かったろう、というのが中田氏の結論です。

 さて、どうでしょう。中田氏は前に見たように、推古朝の初期は厩戸の発言力は弱く、馬子が仕切っていたという説でしたので、次第に発言力を増し、王の実務を担当するようになったと見るわけですね。
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