聖徳太子研究の最前線

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近年の研究を反映した概説と歴史小説・研究への重い提言:吉村武彦・川尻秋生・松本武彦編『東アジアと日本』

2022年03月18日 | 論文・研究書紹介

 最近は書名に「東アジア」の語を用いる本が増えました。私自身、岩波新書でベトナムを含む『東アジア仏教史』を出しているわけですが、私たちがこの語を使い始めた何十年か前には、東アジア論はそれなりに論じられていましたが、個々の論文はそれほど多くはありませんでした。

 また、盛んに使われるようになった現在も、中国と日本だけ、あるいは韓国と日本だけを扱っておりながら「東アジア」と称する論文も目につきます。それでも日本の資料だけで論じていた頃に比べれば、状況は改善されたと言えるでしょう。

 さて、角川選書から出されている「シリーズ*地域の古代日本」全6巻の第一巻として、「東アジア」の語を冠して出版されたばかりなのが、

吉村武彦・川尻秋生・松木武彦編『東アジアと日本』
(角川書店、2022年2月)

です(吉村先生、有難うございます)。この3人の編者によるシリーズは、他は『陸奥と渡島』『東国と信越』『機内と近国』『出雲・吉備・伊予』『筑紫と南島』であって、『東アジアと日本』はその総論にあたります。この本を読んだ後、さらに理解を深めるため、参考文献、関連する博物館などの施設、年表、地図などが付されており、便利です。

 吉村武彦「1章 東アジアにおける倭国・日本」は、最近の研究に基づいて概説しており、7世紀には百済・新羅・高句麗から駱駝が贈られていることに触れ、日本がユーラシアの一部であることに注意し、倭国の国内でも通訳を必要とする蝦夷や隼人がいたことに注意します。

 仏教や儒教の伝来に触れた部分のうち、推古朝に諸寺が建立された目的は「君親」のためであって、「つまり推古天皇のためであった」(39頁)としていますが、「親」も重要ですね。もっとも、氏族の先祖は天皇に仕えて職務を保証されていたのですから、「君」のためという点と「親」のためという点は重なります。これは、中国北地の造像碑などが、「皇帝」のため「父母」のためと称していることを承けていますので。

 『聖徳太子』の著述もある吉村氏は、この本では推古朝については、推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子の三頭体制と見ているようで、厩戸皇子を特別に重視している様子はありませんが、最近の他の本では「太子は~」と述べていますので(別の記事で紹介します)、「皇太子」の語は潤色にせよ、「太子」と呼ばれていたことは認めているように見えます。

 なお、「憲法十七条」については、統治の基本は礼だとしている点は、「儒家思想の本質」が捉えられているとしつつ、このブログでもとりあげた山下洋平氏の論文(こちら)を引き、『管子』の影響も指摘されているとしています。

 礼は確かに儒教の柱ですが、それにともなうべき「楽」が「憲法十七条」では無視されていることは、最近、私が発見したこのブログでも紹介した通りです(こちら)。

 次にこのブログと直接関わるのは、川尻秋生「4章 仏教の東漸と寺院」です。この章では、欽明15年(554)2月条が、百済が救援の兵士を乞うて来た際、五経博士などの交代とともに、「僧曇慧等九人を、僧道深等七人に代う」とあることに注意します。

 これによれば、『日本書紀』が仏教公伝の年とする欽明13年(552)より前に僧侶たちが派遣されていたことになり、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』や『上宮聖徳法王帝説』が説く欽明天皇戊午年(538)に軍配があがることになります。川尻氏は欽明13年説を正しいとは断定しないものの、欽明15年頃には百済から僧侶が交代で来ていたことを認め、既に伝来していたことは確かとします。

 瓦については、文様の類似だけなら瓦当笵の移動で説明できますが、飛鳥寺の創建期の軒丸瓦は2種であって、瓦当部と丸瓦部の接続法まで違っており、それぞれ百済の王興寺の2種の瓦と一致するため、王興寺の瓦を作成した2グループの工人たちが飛鳥にやって来たことが明らかになったと述べます。

 そして、「聖徳太子」の語を用いたうえで、その聖徳太子の病気平癒を祈って造立された法隆寺金堂の釈迦三尊像銘は、東野治之氏によって追刻でないことが示されている以上、そこに「法皇」の語があるのは当時のものと見てよく、すると天皇号もこの時期にはできていたことになるとします。

 三尊像の木製台座を支える補助材に「辛巳年(621)」という墨書が見えていることも、太子の没年である壬午(622)と齟齬しないと説くのです。

 疑われることが多くなってきた『元興寺縁起』については、最初に疑った福山敏男の研究を先駆的と評価したうえで、津田左右吉と同様、「厳密にすぎる」面があったとします。

 福山が怪しいとした箇所のうち、蘇我を「巷宜」と表記する点、また推古天皇の宮を「佐久羅韋等由等(さくらいとゆら)宮」と表記する点については、多数出現した7世紀の木簡のうちに「巷宜」と記したものがあるうえ、「桜井舎人部豊前」と記した木簡から「桜井宮」に仕えた舎人の存在が知られ、豊浦宮はかつては『元興寺縁起』が説くように「桜井豊浦宮」と称されていたことが明らかになったため、古い伝承を伝えていると見て良いとするのです。また、都周辺と地方での寺院の建立について検討しており、有益です。

 他にも松木武彦「2章 東アジアの古墳と墳丘のかたち」、館野和己「3章 中国・朝鮮・日本の古代都城」、三上「5章 漢字文化の東アジア的展開と列島世界」などが並んでおり、異色であるのは、今津勝紀「6章 古代の災害」と遠藤みどり「7章 ジェンダー」であり、これによって最近の研究状況を知ることができます。

 井沢元彦の間違いだらけのトンデモ歴史本(こちら)と違い、歴史に関する見識を示していたのが、巻末に置かれたエッセイ、澤田瞳子「歴史研究と歴史小説」です。同志社大学の大学院で奈良朝仏教と正倉院文書を研究した後、歴史小説家に転じた澤田氏は、歴史小説はフィクションだから研究とは無関係ではないかという疑問に対して、こう述べています。

私は声を大にして違うと答えたい。むしろ歴史を虚構として描くからこそなお、その根底には真摯な研究が必要なのだ、と。……気ままな解釈すら加えることが可能だ。とはいえそれは自由であると同時に、時に歴史的歪曲に伴う差別すら生み出しかねる危険な行為。つまり誰でも接触できるからこそなお、我々は歴史を正しく知り、読み解かねばならない。資料の正しい解釈と多くの研究者の精緻な分析への敬愛を欠いた恣意的な歴史解釈は、客観性の失せたただの玩弄物に堕してしまう。その事実を、我々は常に意識すべきだろう。(240頁)


 まったくその通りであって、井沢氏に毎朝唱えてもらいたい文章ですが、これは歴史研究者に対する注文でもあるでしょう。研究者も、程度の差こそあれ、考証の形を借りてこうしたことをやりがちなので。