聖徳太子研究の最前線

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厩戸皇子を推古朝の改革、特に隋との外交の主体と見る:若井敏明「厩戸皇子による改革の一側面」

2022年03月15日 | 論文・研究書紹介
 推古朝を推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子の三頭体制とみなす「穏健そうな」見方が有力となっている中で、前回は外交に関する厩戸皇子の関与を疑う神野志論文を紹介しましたので、逆に、厩戸皇子の主導と見る論文を紹介しておきましょう。10年前のものですが、

若井敏明「厩戸皇子による改革の一側面」
(『神戸山手短期大学紀要』55号、2012年12月)

です。個性に富んだ研究で知られる若井氏は、隋を模倣した推古朝の諸改革は、厩戸皇子によるものと見られると大胆に説いています。

 若井氏は、用明天皇の蘇我氏の血を引く初めての大王就任であって、用明の即位は大和朝廷が仏教を受け入れるきっかけとなる出来事だったとします。

 そして、用明天皇の後継をめぐる蘇我氏と物部氏の争いの際、物部氏側の中臣勝海が呪詛しようとしたのは、敏達天皇の皇子である彦人皇子と竹田皇子であったことから、この二人が有力候補であったとします。しかし、事情は不明ながら実際に即位したのは用明の弟である泊瀬部皇子であって、崇峻天皇となりました。当然のことながら、年若い厩戸皇子などは、まったく問題にされていません。
 
 ついで法興寺と大仏の建立について厩戸皇子の関与を説く文献もあるものの、『日本書紀』大化元年の孝徳天皇の詔では馬子の建立としているため、太子の疑わしいとし、推古2年の三宝興隆の詔についても、仏教を推進してきたのは蘇我氏であるため、この時点での厩戸が関与した可能性は低いとします。

 このように、否定的なのですが、厩戸が斑鳩に宮を構えた頃から、その活動が記される例が増えるのは、この時期になって政治的発言力をつけた証拠と説きます。そして、津田左右吉が、推古天皇の時代に倭国に導入された技術については、部民制による組織がなされていないと指摘していることに注意します。

 つまり、従来の品部を配置したにすぎないかもしれないものの、役職を特定の氏族に任せるのではなく、官司的なものの設置が進められていたと見るのです。そこで注目するのが、大化元年八月に国司を東国に派遣するに際しての詔が、「法に違えば爵位を降す」と述べていることです。爵位と法は不可分のものであって、これは冠位を制定した段階で考慮されていたはずと説きます。

 冠位十二階が制定されたことは、『隋書』によって明らかであり、そうであれば、それにともなって「法」が制定されるのは当然であり、「憲法十七条」がまさにそれだとするのです。

 「憲法十七条」で問題になった「国司」の語は、律令制における行政官としての国司であって、黛弘道氏が説いたように、大化前代にあっても地方に派遣された国司が存在して不思議はないとします。さらに重要なことは、倭国において初めて、冠位の昇進という概念が生まれたことであると説きます。

 外交については、倭国が隋と接近したことは、過去の対立を改め、仏教面で倭国を支援してきた高句麗にとって好ましくないことになる点に注意します。推古初年以来の百済・高句麗を中心とする外交政策と異なっている以上、推進主体が違っていると見るべきだとするのです。

 新羅もこの時期には倭国に接近してきますので、隋と関係を深める必要はないとする意見が出ても不思議はないのに、この当時進められていた改革は隋を模範としていたのです。

 この時期、倭国はしきりに隋に使いや留学生を派遣しますが、留学生はなかなか召喚されませんし、推古26年には、隋を打ち破ったとして高句麗が捕虜や戦利品と思われる品々を贈ってきます。そうなれば、隋と関係を深める必要なしという主張が出ても不思議はありません。

 そのような状況で、厩戸皇子は推古30年(622)に亡くなります。隋に送られて唐の建国とその強大化を見聞した留学生たちは、厩戸皇子が没した翌年に新羅経由で帰国してその強盛さを伝えますが、倭国が唐に使いを送るのは、舒明天皇2年(630)のことでした。

 以後も、第1回の遣唐使の帰国にともなって来た唐の使節は、倭国の王子と礼を争っており、以後、倭国は大化改新まで遣唐使を送ることがありませんでした。取り残された留学生は自力で帰国しますが、朝廷で重んじられた形跡はありません。

 つまり、推古朝初年までの百済・高句麗重視の外交政策に戻ったのであって、推古朝における隋との盛んな興隆を推し進めた人物がいなかったことになります。これを逆に言えば、厩戸皇子こそが隋との外交を盛んに進めたことを示すとするのです。冠位十二階と「憲法十七条」もその時期のものですし。

 「彼はやはり聖徳太子と呼ばれるにふさわしい人物だったといえるであろう」というのが、若井氏の結論です。

 ただ、厩戸没後、高句麗から仏教関係の品が贈られ、太子ゆかりの四天王寺と秦寺におさめられたことを見ると、厩戸皇子を隋一辺倒の人物とみなすわけにもいかないように思われます。重点をどちらに置いたかということでしょうか。