聖徳太子研究の最前線

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「近代の聖徳太子」シンポでのコメント:津田左右吉曰く、「憲法十七条」はデモクラシイではない

2022年03月09日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「近代の聖徳太子」シンポジウムがいかに充実していたかは、前回の記事では紹介しきれませんが、3人の発表を承けて私がコメントし、それに対する発表者の応答があった後、フロアーを交えて討議になりました。

 私はまず、私自身、N-gramを利用した古典文献の比較対照ツール、NGSMの作成に関わったこともあるため(こちら)、その威力を熟知しているN-gramを活用したGoogle Ngram Viewerで、Prince Shotoku という語を英語文献で検索してみた結果を示し、年代ごとの言及の変化を示しました。



 Shotoku Taishi で検索しても同様の結果となります。この二つの語を同時に検索して比較することもできますし、下の年代のところをクリックすると、Googleに収録されているその年代の文献の参照箇所に飛びます(こちら)。英語が主ですが、諸国語の文献もかなりカバーされており、不十分ながら日本語文献、中国語文献も増えつつあります。青空文庫の明治・大正の文献データなどを活用すれば、これに近いことができるでしょう。

 「憲法十七条」が説く「和」こそが日本人の古来からの特質だとする俗説を批判するため、また自民党などは保守なのだから聖徳太子絶讃だろうとする常識があてにならないことを示すため、「日本人は「和を以て貴しとなす」の精神を捨てよ」と題された宮澤喜一元首相のインタビュー記事(『中央公論』2004年2月号)を紹介しました。

 歴代総理の中でおそらく最も英語が達者であった宮澤元首相は、

私は日本人はいったん「和を以て貴しとなす」の精神を捨てるべきだとさえ思います。リスクをとることを恐れない強い精神力、勇気を持たなくてはいけない」(141頁)


と断言しています。国会議員や官僚たちが国内国外の顔色ばかり気にし、重要な事柄について自分の判断で決定してその責任をとるという姿勢を見せないことに我慢ができかねたのでしょう。

 ついで引いたのは、津田左右吉が大正9年(1920)4月に文芸雑誌『人間』に掲載した「陳言套語」です(現代仮名遣いになっています)。「ありふれた詰まらない言葉」という意味の題名はむろん反語であって、当時稀なすさまじい批判がなされています。

我が国の過去に固定した風俗や国民性があるように考え、そうして将来もそれをそのままに保存してゆかねばならぬように思うのが間違である、ということは、これだけでも明であろう。こういう間違った考を有っている人々は歴史に重きを置いているように自らも思い人にも思われているらしいが、実は全く歴史を知らぬものである。少くとも歴史的発展ということを解しないものである。またこういう人たちは、昔の思想や風俗がそのままに近ごろまで行われていたように思っている位であるから、現在の新しい思想を考えるについても、それと同じものが昔にもあったように説く。今日の立憲政体は神代史にも現われている我が国固有の政治思想の発現 であるという。あるいは、聖徳太子の憲法にデモクラシイの精神があるなどという。まるで昔の時代をわきまえず、その時代の精神をも解せざるものである。のみならず、現在の事実をも知らぬものである。


 いや、すごいですね。津田が聖徳太子の事績を疑ったのは、こうしたいい加減なことを言う人々に対する反発によるものであることが良く分かります。オリオンさんがあげた稻田朋美議員の珍発言などは、ここで指摘されている歴史知らず、現実知らずの典型ですね。その稻田議員を支援してきた安倍元首相なども、読書家であった大平首相などと違って本を読まないことで知られており、歴史音痴の一人ですが。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長にしても、「厩戸王」の指導要領問題が起き、国会討論となった際に国会議員にレクチャーしたという現理事にしても同類であって、聖徳太子についてきちんと研究していないことは、このブログの「太子礼賛派による虚構説批判の問題点」コーナーで書いてきた通りです(こちら)。

 「憲法十七条」は話し合い重視ですが、これは現在で言えば大臣クラスと上級官吏対象です。当時の状況では、民衆の政治参加を期待するのは無理だったでしょうが、君・臣・民という三分法に立つ「憲法十七条」では、民衆は儒教の視点でも仏教の視点でも「思いやってあげる」べき存在に止まります。身を捨ててでも救うべき対象ではあるものの、政治の主体とはなりえない存在です。

 当時としては画期的であったと評価することと、現代の民主主義と同じだとするのとは大違いです。なお、津田は太子虚構説ではありません。極度な伝説を否定し、太子の真のあり方を明らかにすべきだという主張であって、政治や仏教の面でそれなりの事績があったことは認めていました。

 私は、津田説に反対して「憲法十七条」や三経義疏は太子の作と見て良いと説いているわけですが、これは、津田の批判的な研究方法を評価して津田説自身に向けて検討してみたという一面もあるのであって、津田の個々の説については反対であることが多いものの、学者としては学生の頃から尊敬していました。そのことは、論文にも書き、このブログでも触れた通りです(こちら)。

 さて、3人の発表はいずれも有益でしたが、それを評価したうえで、最初のデフランス発表については、(1)聖徳太子への関心は日本美術の発見と平行しているなら、聖徳太子の評価は、日本(仏教)美術の高い評価と連動していたのか? (2)海外で太子のイメージを提示したという姉崎正治の著作の影響の具体的な例は? (3)『伝暦』重視だというボーネルの力作は、太子信仰史の素材という点だけで評価したのか、史実も反映していて有益とみたか? (4)実像追求を放棄する最近の研究態度について、どう考える? などと尋ねました。

 これに対しては、日本側も万博などを通じて美術面を打ち出しており、聖徳太子はその日本美術の中心とみなされた面があるとのことでした。姉崎については、欧米の研究書や論文などではあまり触れられていないものの、姉崎の日本文化の本は教科書のように広く読まれていた由。また、ボーネルは文献の訳に重点を置いており、彼の本でも『法王帝説』の訳を示し、『伝暦』の影響を明らかにするなどの面が中心であって、史料批判や太子の歴史的実像といった面にはあまり関心がないそうです。

 次のブレニナ発表については、(1)近代において日蓮信徒が太子を顕彰する際、『法華経義疏』が本義とする『法華経』を最高としない法雲流の解釈をどう扱ったか? (2)日蓮参詣を打ち出した叡福寺としては、日蓮の「引き立て役」の太子でいいのか? (3)在家の日蓮主義団体を組織した田中智学は、太子が「在家」であったことをどう評価したか。(4)重要な役割を果たした姉崎は、智学流の日蓮信仰をどう考えていか?と尋ねました。
 
 これについては、日蓮自身、太子を尊重しつつも『法華義疏』の『法華経』観については批判的であったため、日蓮系の太子顕彰には微妙な点があるとのことでした。また、叡福寺では、親鸞や空海関連の施設は目立つものの、日蓮の成績については、あまり目につかない場所にあるそうです。智学は、太子が「在家」であったことは強調しておらず、偉大な政治家という面を重視していたらしいとのことでした。姉崎については、智学とは距離をとろうとしていたらしい時期があるものの、智学門下の代表的な学者とは長く交流があった由。

 次のクラウタウ発表については、昭和の手前までを扱っていたわけですが(それでも膨大な資料でした)、昭和期の「和」の強調は紀平正美などの役割が大きいことに触れておきました(こちら)。

 質問としては、(1)明治憲法と「憲法十七条」の関係を強調した本は意外にもほとんどないことを明らかにしたのだから、「ないわけではない」としめくくるとそちらが強調されすぎないか? (2)明治期には「憲法十七条」そのものの注釈は少ない以上、小倉豊文が排撃したが、偽作の『五憲法』の影響具合はどうだったか? (3)明治天皇と聖徳太子が同一視される風潮であったうえ、明治天皇は『法華義疏』や唐本御影を手元に起き続けたことが示すように太子を意識していたと思われるが、天皇やその側近たちは、明治天皇と太子を同一視することをどう考えていたのか? などについて質問しました。 

 これらの質問に対して、「ないわけではない」ことは確かだが、「ほとんどない」に近いので、そちらを強調すべきだったとのことでした。偽の「五憲法」は江戸時代から明治の末まではかなり有力であり、明治期の国家主義的で著名な僧侶も、太子の憲法というと「五憲法」で考えていたそうです。明治天皇自信の太子観などについては今後の課題とのことでした。

 その他にもフロアから、明治憲法起草に関わった箕作麟祥が「憲法十七条」を意識して「憲法」の語を用いたとされるが、これについてどう思うかという質問がありましたが、オリオンさんも私も、そう言われているものの、箕作自身がそれについて述べたものを見たことがない、答えるほかありませんでした。

 今回の紹介記事で触れられなかったことも多く、本日の発表が論文や本になって出るのを楽しみにするばかりです。とにかく充実したシンポジウムでした。私自身も、先日の別のシンポジウムで「憲法十七条」の古注の変遷について紹介しましたので、歴史上どう扱われてきたかについては、いずれどこかで書く予定です。