聖徳太子研究の最前線

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冠位十二階・憲法十七条・遣隋使の三点セットを太子主導と見る説を疑う:神野志隆光「『日本書紀』の「歴史」と「聖徳太子」」

2022年03月12日 | 論文・研究書紹介
 長く続いた聖徳太子信仰の時代、江戸期における儒者・国学者の太子批判の時代、近代になって新たに始まった太子顕彰の時代、「承詔必謹」を説いた国家主義の元祖としてもてはやした戦前戦中のナショナリズム時代、戦後に一転して民主主義の元祖、新たな変革のリーダーとされた時代の後、戦前・戦中の太子観に対する反省、また戦後になっても太子を重視し続けようとする傾向に対する反発もあって、太子の事績を疑う傾向が強まり、「聖徳太子はいなかった」説まで登場した懐疑時代となりました。

 現在は、太子についてはほどほどの再評価がなされつつあり、推古朝は推古天皇・蘇我馬子・聖徳太子の三人体制だったとされ、「憲法十七条」は多少『日本書紀』の潤色があるにせよ、大筋は推古朝と見る説が主流になっています。太子の役割をどの程度認めるかは研究者によってそれぞれですが、「憲法十七条」については、周辺の学者などの支援は得たにしても方向性は厩戸皇子が示した、と見る研究者が増えつつあるように思われます。

 そこに私が参戦していろいろと発見し、太子の事績を疑った津田左右吉のひ孫弟子であって僧侶でも太子信者でもないのに、文献研究の結果、冠位十二階・「憲法十七条」・『勝鬘経』講経(三経義疏)・遣隋使は太子の主導と見てよいと説くに至ったわけです(こちら)。

 上記のような太子再評価の動向の中にあって、聖徳太子の役割を認めない少数派の一人が、『古事記』の研究者として知られる神野志隆光氏の、

神野志隆光「『日本書紀』の「歴史」と「聖徳太子」」
(万葉七曜会編『論集 上代文学』第37冊、2016年)

です。

 ただ、文学研究者として出発した神野志氏は、太子の事績否定といっても、『日本書紀』だけを作品として読めばそう読めるのであって、他の文献や後代の太子伝説を持ち込んで強引に解釈するのは適切でない、という立場です。

 この論文で神野志氏は外交を中心に扱っており、隋使の裴世清が会った倭王は聖徳太子だろうとするなど、『隋書』の倭国訪問報告と『日本書紀』を重ね合わせてあれこれ推測するのは、『日本書紀』を『日本書紀』として読む姿勢ではないため、「語られていないことは語られないことで意味あるものとして見ることではないか」(112頁)と説きます。

 つまり、倭の五王のことも、推古8年の遣使もなかった歴史を語るのが『日本書紀』なのでああり、それを見届けるのが『日本書紀』を読むことだとするのです。近年のテキスト論とヴィトゲンシュタインを合わせたような意見であって、これはこれで見識です。

 その神野志氏が紹介するのが、「天寿国繍帳」研究で知られる飯田瑞穂氏の『聖徳太子伝の研究』(1999年)の一節です。

『書紀』の記事では、政治・外交の面での太子の関与は意外に少なく、推古朝の新政の眼目をなす冠位十二階の制定や、対外関係の一連の記事、すなわち対新羅・百済の外交・征討、遣隋使の派遣、隋使の来朝などについて、太子との連関はまったく語られていない。

 実証的で評価が高い飯田氏のこの本は、聖徳太子虚構説が登場する前に書かれた諸論文を集めたものであって、上の文は、推古朝を「聖徳太子の時代」と見ることに対する疑いです。

 ただ、『日本書紀』の最終段階で律令制における天皇の理想象である三教に通じた聖人として<聖徳太子>を捏造したとする聖徳太子虚構説に対する反論にもなる指摘ですね。『日本書紀』は、太子の活躍の様子を強調していない面があるというのですから。

 神野志氏は当時の豪族の合議、天皇継承における群臣推挙を重視しており、厩戸皇子が皇太子となったのは群臣の合議を経てのことであり、厩戸の死後、皇太子が立てられなかったのは、合意形成がなされていなかったためと見ます。

 『日本書紀』の記述から見て、崇峻天皇の暗殺も皇極天皇の譲位も、群臣の合意によるものとするのです。なお、豪族の合議に関する研究は、以前紹介しました(こちら)。
 
 こうした立場から遣隋使関連の記事を読むと、皇太子に言及されないのは、群臣の合意としてなされたためとしか考えられないとします。『聖徳太子伝暦』では、太子が妹子を隋に派遣したのは前世で所持していた『法華経』が衡山にあるのでそれをもたらすためだったとされており、外交とは無縁の内容になっていることに注意するのです。

 この論文では、持統天皇の即位にあたっては、群臣がレガリアを献上するという形でなく、中臣大嶋が「天神寿詞」を読み、忌部色夫知が「神璽」としての鏡と剣を奉るという形で、その正統性は神の権威によって保証されている点で、それまでの群臣推挙とは全く異なるものになったと説いた前稿と対比して論じるなど、有益な指摘もいくつかなされています。

 ただ、『日本書紀』ではどう描かれているかという面だけを見てゆくという方法はそれで良いものの、問題は、『日本書紀』が特別に重視して全文を掲載している「憲法十七条」の内容に触れていないことですね。

 神野志氏の方法によって見えてきた面もあるものの、『隋書』の記述を切り捨てたため、『隋書』における倭国の使者の言上が「憲法十七条」や『勝鬘経』講経と共通する面があることなどは見逃されました。

 また、古代のこうした史書では、国家の方針は国王によって決定されるため、新たな決定に関する記事に主語がない場合は、国王の命令と見るのが普通です。推古紀には厩戸皇子の関与があまり説かれていないのは確かですが、用明紀では、冒頭で厩戸皇子について「豊耳聡聖徳」「豊聡耳法大王」「法主王」などと貴い異名がいくつも語られ、「位、東宮に居り、万機を総摂し、天皇の事を行なう。語、豊御食炊屋姫天皇紀に見ゆ」と記されています。これは、まさに『日本書紀』の文言ですよ。

 厩戸皇子の命令とは記されていないものの、皇族としては異例なことながら、太子の二人の弟が続いて新羅征討の将軍として派遣されていることをどう見るのか。

 そのうえ、舒明天皇即位前紀では、山背大兄の天皇即位を主張し続けた境部摩理勢のことを「以前から聖皇に寵愛されていた(素聖皇所好)」と述べていることも見逃せないでしょう。推古8年に新羅に大将軍として派遣された「境部臣」は、雄摩侶よりは摩理勢の可能性が高いため、これらはつなります。


 神野志氏の上記の議論は、あくまでも推古紀に描かれた厩戸皇子に関する主張であって、『日本書紀』全体が描いている厩戸皇子に関するものではないことになります。
 
 また、その推古紀にしても、冒頭で厩戸皇子の神格化された記述が見られる反面、後半になると皇太子に関する記述がぱったりと無くなることをどう見るのか。馬子と対立して斑鳩にこもり国政から遠ざかったとする推測が正しいかどうかはともかく、推古紀におけるこうした記述の落差について、何らかの事情を想定すべきですね。

 神野志氏のこの論文は、新鮮な視点を示していて参考になる指摘がいくつも有るものの、太子中心主義に対する反発が強いあまり、太子の事績否定の面ばかりが強調され、『日本書紀』を『日本書紀』の立場で読むという神野志氏自身の立場が、完全には貫かれていないように見えるのですが、いかがでしょう。