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倭国の国書の「日出処」は倭語を漢語に訳したものか?:廣瀬憲雄「「日出処天子」外交文書再考」

2021年11月24日 | 論文・研究書紹介
 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書については、様々な議論がなされてきました。日が昇る倭国を上位とし、日が沈む隋を下位とみなしたうえで用いたという説も出されました。

 こうした状況を変えたのは、「日出処」「日没処」の語は東アジアで広く読まれた『大智度論』のうち、「日出づる処は此れ東方、日没する処は此れ西方」とある箇所に基づいており、方位を示しているだけで上下関係は意識されていないとする東野治之氏の『遣唐使と正倉院』「日出処・日没処・ワークワーク」(岩波書店、1992年)でした。

 この問題を最近になって改めてとりあげたのが、

廣瀬憲雄『古代日本と東部ユーラシアの国際関係』「第二部第三章 「日出処天子」外交文書再考-典故と翻訳の問題から-」
(勉誠出版、2018年)

です。外交史を専門とする廣瀬氏については、このブログでも「東天皇」国書に関する論文を紹介したことがあります(こちら)。

 廣瀬氏は、上記の東野氏の発見を「卓見」として評価したうえで、『大智度論』のその箇所を「日出処」国書の典拠とはみなせない理由を述べます。それは、『大智度論』のその箇所は、仏教が批判していたインドの六派哲学の一つである勝論(ヴァイシェーシカ学派)の主張を述べた箇所であるためです。

 『大智度論』は、『二万五千頌般若経』(鳩摩羅什の漢訳では『大品般若経』)に対して龍樹が作ったとされる注釈であって、『大品般若経』と同様に羅什訳とされていますが、梵文が残っている『二万五千頌般若経』と違い、注釈である「論」の部分の梵文は発見されておらず、インドの仏教文献では引用が見られないため、先行の注釈に基づきつつ鳩摩羅什が自らの考えを交えて編集・作成したとする説が有力です。

 「日出処」「日没処」の語は、『大智度論』では、元の経典ではなく、「論」の部分に見えています。永続的な実体を認めない仏教では、方位についても相対的なものと見て実体とは認めないのに対し、勝論は様々な実体を想定しており、方位も実体とみなしていたため、その立場で仏教の方位説を批判したのが、この箇所であることに廣瀬氏は注意します。むろん、この議論の後に仏教側の反論が示されています。

 問題の箇所は、「如経中説、日出処是東方、日没処是西方……」とあり、「経中説」というのは、『大智度論』が注釈している『大品般若経』のこととみなされがちですが、廣瀬氏は、『大品般若経』にはそうした箇所はなく、これは勝論の議論であるため、「経」は勝論側の経典であるはずとします。

 そこで、廣瀬氏は、宮元啓一氏の日本語訳の『勝論経』では、この東は西という概念が実体としての方位に基づくことが説かれていることを示し、そのような勝論側の議論に基づく表現を仏教外交で使うことは考えにくいと説きます。

 さらに、6世紀に波斯国が北魏あてに送った国書では、北魏のことを「日出処」と称してその「天子」に対して波斯匿国王が「敬拝」しますと述べており、梁の『職貢図』では、胡蜜檀国が梁の皇帝のことを「揚州天子、曰(日)出処大国聖主」と称していることに注意します。

 そして、波斯匿の国書については、中世ペルシャの書簡文言が反映されているという論文があるとし、胡蜜檀国の国書については、国王が「胡蜜王、名は時僕」という特異な自称形式を用いているとしたうえで、類例をあげてサンスクリット文書の形式であるとします。

 つまり、「日出処」は、いずれも中国周辺の国の国書を漢語に訳したものに見えるため、倭国の「日出処……日没処」の国書も、倭語から漢語に訳した結果生まれた可能性を想定しなければならないとします。そして、実際に、インドやチベット系の国から送られた致書形式の書状が、明らかに元の国の表現を訳したと思われる漢語表現が見られると説くのです。

 このため、倭国では当初から隋を上位とする関係を容認していたのであって、「日出処天子・日没処天子」という国書は、倭国の表現に引きずられていて上下関係を正しく表記していなかった可能性があり、あるいは倭国の上下関係の認識を正しく表示していたが、隋は臣属関係が正しく表記されていないとみなした可能性もあるとし、そのふたつの可能性を検討すべきだとします。

 前者の場合だと、倭王が隋使の裴世清を丁重にもてなし、「大国維新の化を聞かん」と述べたとする『隋書』の記述と良く合うことになり、翻訳で生まれた「日出処・日没処」の表現がまずかっただけということになります。

 廣瀬氏のこうした主張の問題点は、「日出処……日没処……」という文言が、倭国風な表現の文を漢語訳した結果生まれたとしたら、元になる倭文はどんな表現だったのか、類似した表現は『古事記』や『万葉集』などの古代の文献に見えるのか、という点ですね。また、訳したのは誰だったのか。

 私の最近の発見によれば、倭国王は、自分は「海西菩薩天子」の弟分である「海東菩薩天子」だという自負を持っていたのですから(こちら)、さらに新たな検討要素が加わったことになります。

 いずれにしても、あれこれ勝手に空想するのではなく、東野論文・廣瀬論文ように、典拠に注意しつつ文献を精査・精読することによって、研究は少しづつ進展していくのだ、ということを痛感させられますね。