聖徳太子研究の最前線

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法隆寺と百済人の密接な関係:山崎信二「七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国と日本の関係」

2021年11月03日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子虚構説論者たちは、考古学を考慮せずに文献だけを材料としていましたが、考古学の研究成果、それも実物が語る状況を最優先したうえで、文献も考慮する研究は重要です。

 その例の一つが、

山崎信二「七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国と日本の関係」
(『日韓文化財論集』Ⅰ、奈良文化財研究所学報:第77冊、2008年3月)

です。山崎氏は、飛鳥藤原宮跡発掘調査部に勤務して複数の共同研究の中心となり、また韓国国立文化在研究所と奈良文化財研究所の共同研究の窓口・実務担当者となって韓国の研究者と交流し、韓国の諸寺院の瓦を調査した考古学者です。

 山崎氏は、法隆寺の瓦では、忍冬唐草文軒平瓦と呼ぶべき一群の日本風な瓦があるとし、若草伽藍以外では、6世紀後半から7世紀前半にかけて百済から渡来した百済系渡来人たちの寺で主に用いられたと述べます。

 一方、7世紀末には、紀伊の上野廃寺や伯耆の斎尾廃寺などで独特の文様を持つ軒平瓦が使われており、こちらは新羅式の作り方であって、主に7世紀に新羅から渡来した人々の寺で用いられた由。

 そして、確実に高句麗風な瓦と言えるのは、琵琶湖東岸に見られるものですが、これについては文献には見えないものの、高句麗からの亡命者たちが生み出したと見ます。

 まず、法隆寺215Aは、7世紀中頃に若草伽藍で用いられたものであって、以後の法隆寺式の祖型となったとします。次に、216Aは、法隆寺西院伽藍の金堂と塔の創建瓦であって、若草伽藍が670年に焼けた後のものであるため、675年あたりが上限となります。

 斑鳩周辺の平隆寺や山村廃寺の瓦は216Aより後、また播磨の新部大寺の瓦はさらに後、播磨の下太田廃寺はその模倣、讃岐仲村廃寺の瓦はさらにその模倣であって、年代がかなり下り、675-700年あたりと推測します。

 次に法輪寺216Bを祖型とするのは、近江・伊賀・摂津・土佐などの諸寺です。法輪寺は、『上宮聖徳太子伝補闕記』によれば、斑鳩寺が焼失した後、寺の者たちが再建の土地を定めることができずにいた際、百済の「入師」が人々を率いて(斑鳩北方の三井の地に法輪寺である)三井寺を造った、とあります。

 そのため、山崎氏は、再建された金堂の法隆寺216Bは法輪寺216Bより遅れると見ます。法輪寺216Bが評判が良かったため、再建法隆寺でも用いられ、関連する各地の寺でも用いられたと推測するのです。法隆寺216Bは、摂津の細工谷瓦窯にもたらされています。

 再建法隆寺の216Cは、組み合う軒丸瓦から見て、早くても天武期とします。
そして、これに似た例は、物部氏の故地である渋川廃寺の例のみであり、渋川廃寺の瓦は、この216Cを変化させたものと見ます。となると、渋川廃寺の主要な瓦は天武期のものということになりますね。

 山崎氏は触れていませんが、渋川廃寺は物部氏が建てた寺なので物部氏は仏教反対でなかったとする説がまだ根強いですが、これは誤りであって、物部守屋が打倒された後になって建立されたことは以前紹介しました(こちら)。

 さて、山崎氏は上記のような状況についてさらに詳しく論じた後、法隆寺と百済人の関係について見てゆきます。

 まず、(A)釈迦三尊像は鞍作止利が造ったと記されています。止利の祖父は、渡来した司馬達等であって、父については「百済仏工鞍部多須奈」と記されていますね。(B)金堂の広目天像は光背に山口大口費が造ったと記され、『日本書紀』でも白雉元年(650)に「この年、漢山口直大口が詔を奉じて千仏の像を刻る」とあります。山口氏は渡来系の漢氏ですね。(C)法隆寺の銅板造像記に、鵤大寺の徳聡、片岡王寺の令弁、飛鳥寺の弁聡という3人の僧が父母の恩に報いるために造ったとあり、「族は大原博士、百済に在りては王姓」と記されています。

 つまり、すべて渡来系氏族の者たちなのです。鞍作氏の寺である坂田寺からは手彫り忍冬唐草文軒平瓦が出土してますが、これが見られるのは若草伽藍と坂田寺だけであって、密接な関係がうかがわれます。祖先は中国出自と主張する氏族たちもいますが、その当否はともかく、直接には朝鮮半島、主に百済から来た人たちです。

 7世紀半ばに制作された広目天像の時期に近い瓦は、若草伽藍の213A、213Bであり、舒明天皇の百済大寺と考えられる吉備池廃寺では、213Bの型押しを用いているものの、若草伽藍より范傷が進んでいます。

 法隆寺再建当初の(C)に近いものとしては、摂津堂ヶ島廃寺から216Aと同笵の瓦が出ており、これが摂津百済寺であろうと推測されています。また、そのすぐ北の細工谷遺跡からは、「百済尼」「尼寺」と書かれた土器が出ており、百済尼寺と見られています。

 この百済寺と百済尼寺を建てたのは、『日本書紀』天智3年(664)条に「百済王善光等をもって、難波に居らしむ」とあるため、百済王善光と推測されます。先に見た大原博士氏も百済の王姓でしたね。善光は、日本の軍事援助を望む百済の義慈王が送り込んだ百済王子の豊璋の弟であって、百済が亡びた後、倭国は善光を難波に置き、日本に朝貢する百済の王とみなしました。

 つまり、若草伽藍造営時は、百済渡来の倭漢氏の一員である鞍作氏と山口直氏、再建前後の法隆寺は百済王族と関係が深いのです。

 舒明朝の時期から皇極朝にかけて百済大寺が造営された頃、早くに百済から渡来していた人々は、百済王族を囲む形で集住するようになっていき、その核は百済大寺と、若草伽藍、そして摂津であったと山崎氏は推測します。

 飛鳥時代は、進んだ技術を有していた渡来系氏族をいかに配下に置いて活用するかが重要でした。仏教はまさに最新技術であったため、飛鳥寺・豊浦寺・斑鳩寺(若草伽藍)はその好例であり、斑鳩寺は焼失後も斑鳩近辺の豪族たちによって支えられていたうえ、百済人と深い関係を持っていたのです。となると、四天王寺についてもこの面から検討すべきだということになりますね。
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