少し前に、天文観測記事やその他の語句の偏りに着目し、『日本書紀』の成立について論じた谷川清隆氏の論文を紹介しました(こちら)。
その谷川論文の先行論文である谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』11号、2008年)を批判した最近の論文が、
細井浩志「天文異変と史書の生成ー舎人親王の作品としてに『日本書紀』」
(山下久夫・斎藤英喜編『日本書紀1300年史を問う』、同朋社、2020年)
です。細井氏は、『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)や『日本史を学ぶための<古代の暦>入門』(吉川弘文館、2014年)などの著書があります。古代から平安時代あたりの歴史の研究者であって天文事象記録や陰陽道などの専門家です。
さて、中国では陰陽五行説に基づき、最大の陽である太陽が最大の陰である月に冒される日食は、天子の政治に関わる深刻な天変と認識されており、早くからその観測と予測がなされていました。流星を含め、天体の観測は交代して担当しなければならないため、『大唐六典』によれば、唐では90人の天文観生がいた由。
ところが日本では、757年の『養老律令』においても、天文博士と学生である天文生が10人置かれているにすぎず、実例を見ると定員通りに存在した可能性は低いと細井氏は説きます。したがって、6世紀末から7世紀前半の推古朝にあっては、天文の知識がある者(主に僧侶)が単発的に天変を発見し、観察して占った程度にすぎないだろうとします。
その点、前にとりあげた谷川論文の前に書かれた谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」では、『日本書紀』のβ群である推古紀や天武紀では天文観測が行われたのに対し、皇極・孝徳・斉明・天智紀などのα群では天変を軽視していたとし、これらの記録の偏りを偶然と見る細井説を批判していました。
細井氏は本稿ではそれに反論し、α群は推古朝より時代が新しく、β群の執筆者より唐の事情に通じていただろうから、天変を軽視していたとは考えられないとし、記録に精粗があるのは、記録が残存していたかどうかによると論じます。
天変は機密事項であるため、発見すると内裏に密奏されるのみであるため、情報が広まりにくいのです。そのうえ、β群の天武朝では天文記事が多いのに、それより後のα群でもβ群でもない持統紀に天文記録が1例しかないのは不自然とします。
そして、記録の精粗は資料の有無によるとし、本論文では、その一因は『日本書紀』の最終的な編纂の総裁であった舎人親王が、天武天皇の息子であって、天武紀の天文記事の原資料を持っていたためと推測します。当時は律令制度における官司の施設や文書の保存もまだ不備であって、天皇に関する貴重な資料は担当部署でなく、その皇子に受け継がれたと見るのです。
天武天皇の皇子である舎人親王の母は、皇后であった持統天皇ではなく、新田部皇女ですので、天武時代の記録は受け継いでいたものの、持統時代の記録は持っていなかったというのが細井氏の推測です。また天武紀における天変記事は、ある時期にかたまっているため、密奏の集積記録などではなく、何らかの事情でまとめられた記録が原史料かもしれないとします。
ただ、舎人親王は皇位継承候補ではありませんので、天武時代の資料のすべてを継承してはいなかったと見ます。このあたりは、ちょっと苦しいですね。そして、斉明紀の天文記事が無く、天智紀の記事が1例しかないのは、天智天皇時の記録がその皇子である大友皇子に継承されたものの、壬申の乱によって大友が敗死したためと考えられるとします。
なお、私の方で補足しておくと、ベトナムなどは、外国からの侵略もたびたびあったうえ、王朝が変わると前の王朝の文献を燃やすこともあり、古い文献は僅かしか残っていません。同様に外国の侵略を繰り返し受けていた朝鮮もこれに近い面があり、新羅が対立していた百済と高句麗を打倒して統一を果たしたため、新羅の仏教文献はかなり残っているものの、新羅より早い時期から仏教が盛んであって新羅に仏教や寺院建設の技術などを伝えた高句麗と百済の仏教文献で残っているのは、日本に残存する百済文献1例のみです。
細井氏は他にもいろいろ論じており、『日本書紀』が利用した記録の有無の他に、編者の意向にも注意します。『日本書紀』については、完成当時の権力者たちの意向が反映していることは良く知られていますが、細井氏は、『日本書紀』の天武紀では天武天皇を顕彰しているものの、その皇后である持統天皇については必ずしもそうしていない記述が見られるとして、その例をあげています。
つまり、権力者たちが常に一枚岩であるわけではなく、藤原不比等・元正天皇のグループと舎人親王との間には微妙な距離感があり、それが天文記事や持統天皇の記述に反映していると見るのです。さて、どうでしょう。
ただ、正倉院の写経記録のように、何年何月何日まで記された精密な記録が、一定期間続いている場合は、その中での変化、記述の偏りについて論じることができますが、『日本書紀』の場合は、α群内でも、またβ群内でも記述の精粗があり、後からの潤色もあるわけですので、「α群は天文観測をしなかったから、β群とは別の王朝の記録だ」などと簡単に言えないことは確かですね。
なお、細井氏は、谷川・相馬論文は森説のα群β群を評価していたが、このブログで最近取り上げた谷川氏の「『日本書紀』成立に関する一試案」では、根幹に関わるα群β群の評価を変えているため、「今後の研究の進展をみて、本稿も再検討をしたい」と述べてしめくくっています。
その谷川論文の先行論文である谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』11号、2008年)を批判した最近の論文が、
細井浩志「天文異変と史書の生成ー舎人親王の作品としてに『日本書紀』」
(山下久夫・斎藤英喜編『日本書紀1300年史を問う』、同朋社、2020年)
です。細井氏は、『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)や『日本史を学ぶための<古代の暦>入門』(吉川弘文館、2014年)などの著書があります。古代から平安時代あたりの歴史の研究者であって天文事象記録や陰陽道などの専門家です。
さて、中国では陰陽五行説に基づき、最大の陽である太陽が最大の陰である月に冒される日食は、天子の政治に関わる深刻な天変と認識されており、早くからその観測と予測がなされていました。流星を含め、天体の観測は交代して担当しなければならないため、『大唐六典』によれば、唐では90人の天文観生がいた由。
ところが日本では、757年の『養老律令』においても、天文博士と学生である天文生が10人置かれているにすぎず、実例を見ると定員通りに存在した可能性は低いと細井氏は説きます。したがって、6世紀末から7世紀前半の推古朝にあっては、天文の知識がある者(主に僧侶)が単発的に天変を発見し、観察して占った程度にすぎないだろうとします。
その点、前にとりあげた谷川論文の前に書かれた谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」では、『日本書紀』のβ群である推古紀や天武紀では天文観測が行われたのに対し、皇極・孝徳・斉明・天智紀などのα群では天変を軽視していたとし、これらの記録の偏りを偶然と見る細井説を批判していました。
細井氏は本稿ではそれに反論し、α群は推古朝より時代が新しく、β群の執筆者より唐の事情に通じていただろうから、天変を軽視していたとは考えられないとし、記録に精粗があるのは、記録が残存していたかどうかによると論じます。
天変は機密事項であるため、発見すると内裏に密奏されるのみであるため、情報が広まりにくいのです。そのうえ、β群の天武朝では天文記事が多いのに、それより後のα群でもβ群でもない持統紀に天文記録が1例しかないのは不自然とします。
そして、記録の精粗は資料の有無によるとし、本論文では、その一因は『日本書紀』の最終的な編纂の総裁であった舎人親王が、天武天皇の息子であって、天武紀の天文記事の原資料を持っていたためと推測します。当時は律令制度における官司の施設や文書の保存もまだ不備であって、天皇に関する貴重な資料は担当部署でなく、その皇子に受け継がれたと見るのです。
天武天皇の皇子である舎人親王の母は、皇后であった持統天皇ではなく、新田部皇女ですので、天武時代の記録は受け継いでいたものの、持統時代の記録は持っていなかったというのが細井氏の推測です。また天武紀における天変記事は、ある時期にかたまっているため、密奏の集積記録などではなく、何らかの事情でまとめられた記録が原史料かもしれないとします。
ただ、舎人親王は皇位継承候補ではありませんので、天武時代の資料のすべてを継承してはいなかったと見ます。このあたりは、ちょっと苦しいですね。そして、斉明紀の天文記事が無く、天智紀の記事が1例しかないのは、天智天皇時の記録がその皇子である大友皇子に継承されたものの、壬申の乱によって大友が敗死したためと考えられるとします。
なお、私の方で補足しておくと、ベトナムなどは、外国からの侵略もたびたびあったうえ、王朝が変わると前の王朝の文献を燃やすこともあり、古い文献は僅かしか残っていません。同様に外国の侵略を繰り返し受けていた朝鮮もこれに近い面があり、新羅が対立していた百済と高句麗を打倒して統一を果たしたため、新羅の仏教文献はかなり残っているものの、新羅より早い時期から仏教が盛んであって新羅に仏教や寺院建設の技術などを伝えた高句麗と百済の仏教文献で残っているのは、日本に残存する百済文献1例のみです。
細井氏は他にもいろいろ論じており、『日本書紀』が利用した記録の有無の他に、編者の意向にも注意します。『日本書紀』については、完成当時の権力者たちの意向が反映していることは良く知られていますが、細井氏は、『日本書紀』の天武紀では天武天皇を顕彰しているものの、その皇后である持統天皇については必ずしもそうしていない記述が見られるとして、その例をあげています。
つまり、権力者たちが常に一枚岩であるわけではなく、藤原不比等・元正天皇のグループと舎人親王との間には微妙な距離感があり、それが天文記事や持統天皇の記述に反映していると見るのです。さて、どうでしょう。
ただ、正倉院の写経記録のように、何年何月何日まで記された精密な記録が、一定期間続いている場合は、その中での変化、記述の偏りについて論じることができますが、『日本書紀』の場合は、α群内でも、またβ群内でも記述の精粗があり、後からの潤色もあるわけですので、「α群は天文観測をしなかったから、β群とは別の王朝の記録だ」などと簡単に言えないことは確かですね。
なお、細井氏は、谷川・相馬論文は森説のα群β群を評価していたが、このブログで最近取り上げた谷川氏の「『日本書紀』成立に関する一試案」では、根幹に関わるα群β群の評価を変えているため、「今後の研究の進展をみて、本稿も再検討をしたい」と述べてしめくくっています。