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天文学から見た『日本書紀』推古紀等の性格:谷川清隆・相馬充・渡辺瑞穂子氏の2論文

2011年05月03日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』には天文現象に関する記述がたくさんありますが、それらが事実に基づくものかどうかを、何年何月何日の日食はこれこれの地域でしか見えなかったはずだ、といった天文学の立場から検討したのが、

A:谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』11巻、2008年10月)

B:谷川清隆・渡辺瑞穂子「七世紀の日本書紀の巻分類の事例Ⅰ」(同、13巻、2010年10月)

です。いずれも国立天文台サイトで公開されています。

 まず、A論文では、推古朝より前は除外したうえで、森博達さんの『日本書紀』区分論がα群とする諸巻には、天文現象を実際に観測したと思われる記事はなく、逆にβ群の天文記事は実際に観測されたものと推測されると述べます。

 そして、β群に属する推古朝では途中から天文観測が始まっており、同じくβ群の舒明朝にも観測記事が見えること、それに続くα群である皇極・孝徳・斉明・天智紀については、約30年間にわたって観測された記録がなく、β群とされる天武紀にまた観測記事があり、森さんがα・β群とは異なる独自さがあるとして別扱いする巻30の持統紀では、日食の観測ではなく予測記事ばかりになっているのは、国際関係など何らかの事情によると推測します。つまり、α群とβ群の区分は森説通りだが、推古朝とそれ以後に限っていえば、その違いは「述作者」の違いだけの問題ではなく、何らかの事実を反映していると見るのです。

 末尾には、口頭発表の際の「質問と回答」が「補遺」として載せられていますが、このやりとりが非常に面白く、いろいろ考えさせられます。きちんとした議論が研究を進展させる好例ですね。

 B論文では、考察をさらに進め、『日本書紀』β群の記事は中国や百済などの天文記録を切り貼りしたのではないか、とする疑問を否定します。中国や百済などでは観測できないはずの天文現象が報告されていること、また、古い表現を使っていて唐代の典型的な表現と違っていることが、その理由です。『日本書紀』には中国の星座の名が出てこないというのも、理由の一つとされています。

 そして、天文観測は皇帝とその代理の役人のみがなしうる事業であり、それに基づいて作成された暦も、皇帝が国内と冊封体制に組み込まれた諸国に配布するものであったことに注意します。このため、推古朝の途中で天文観測が始まるのは、煬帝へ対等を示す国書を送ったことと並行する動きであったと推測します。

 そのうえで、α・β群の区分の有効さを認めたうえで、『日本書紀』の新たな区分を提案しています。β群とされる22・23・28・29巻を「天群」、α群の24・25・26・27巻を「地群」、そして、巻30の持統紀を「泰群」と分類するのです。これは、森説がα群に近いが特異な性格を持つとして別扱いしていた巻30を、「地群」と「天群」の特徴を併せ持つ独立した群と認定したものです。

 遣隋使・遣唐使、「朝貢」の語、屋久島との交流、「百済僧誰それ」といった外国僧の呼び方など、国際関係に関する事象だけでなく、従来問題にされていた「内裏」「皇祖母」「不知所如」その他の語について、巻ごとの表を示したうえで簡単な考察をしており、興味深い報告がいくつか含まれています。天文学に関する記述を検討するうちに、その他の記述の違いも、天文の観測に関する分類と連動していることが分かり、関心が広がっていったということでしょうか。

 そうした意外な傾向を発見するには、私が現在、三経義疏分析に用いている NGSMによる比較処理が有効なため、私もそのうち『日本書紀』を細かく区分して試してみる予定です。
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3 コメント

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天文観測 (春眠)
2011-05-04 23:56:48
こんばんは。興味深く読ませていただいております。

> 推古朝では途中から天文観測が始まっており、

『日本書紀』推古十年十月に、百済僧の観勒が来朝して、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢ぎ、
そして、暦法を玉陳に、天文遁甲を大友村主高聡に学ばせた、とありますから、
天文(天変占星術)では、日月食や彗星などの天変を知るため天文観測の必要がありますので、
天文を学んだ高聡が実際に観察・記録したとも考えられますね。

> 舒明朝にも観測記事が見える

舒明四年に、僧旻が帰朝し、637年に流星、639年に彗星の観測された際の発言がありました。

> 天武紀にまた観測記事があり

巻28、天武…幼曰大海人皇子、…能天文遁甲
巻29、天武…四年正月丙午朔、大学寮諸学生、陰陽寮、外薬寮、
巻29、天武…四年正月庚戌、始興占星台
 新羅でも善徳女王の時代(632-647)に瞻星台を造ったとのことですが、天文をよくする
天武天皇が陰陽寮や天文観測施設を設けた、と。

> 巻30の持統紀では、日食の観測ではなく予測記事ばかりになっている

持統、四年十一月甲申、奉勅始行元嘉暦与儀鳳暦、
 儀鳳暦の導入により日食の予測が正確になった、それで特に記載されたのでは、と。

以上のように、観勒・僧旻・天武という特定の人物の関与、天変占星術への需要、そして儀鳳暦の導入、という事情はありますが、いずれにせよ推古朝以来の、国として造暦・頒暦の力をつけていこうという流れは窺われるように思います。
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コメント、有り難うございます (石井公成)
2011-05-05 06:18:57
 詳細なコメント、有り難うございました。
 観勒については、法隆寺の寺伝では、法隆寺の住職を務めたということになってますね。
 僧旻については、僧旻重視の吉田一彦さんから論文、「僧旻と彗星・天狗--『日本書紀』と経典・仏書」 (『東アジアの古代文化』136号、2008年)をもらってますので、いつか取り上げることにします。
 天武朝はいろいろな面で画期となっていますね。天武天皇が学んだという様々な術の実態を知りたいものです。
 持統朝は、正確な予測が出来るようになったので、それを特筆して書いたという解釈ですか。なるほど。
 私は、現代の天文学も古代の天文の術も全く不案内なのですが、『晋書』芸術伝の叙が、「芸術の興るや尚[ひさ]し。先王、是を以て猶予を決し、吉凶を定め……」とあるように、こうした術がきわめて政治的(国家的)な存在であったことは確かですので、『日本書紀』について考えるうえで天文関係の記事は重要と思い、今回の論文を紹介させてもらった次第です。

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日食予報 (春眠)
2011-05-07 00:01:58
こんばんは。補足説明かたがた、コメントを。

> 天武天皇が学んだという様々な術の実態

巻28、天武…元年六月甲申、…将及横河、有黒雲、広十余丈経天、時天皇異之、則挙燭親秉式、占曰天下両分之祥也、然朕遂得天下歟
 この式占とは、先の「能天文遁甲」と合わせて遁甲式のことだろうとされますが、その実態はよくわかっていないようですね。おなじ式占の一種である六壬式の方はかなりわかっていて、CiNii にある細井浩志氏の論文に占い方の実例が書いてあります。また同氏著『古代天文異変と史書』も参考になるかと思います。

天文(天変占星術)の内容に関しては『史記』天官書をはじめとする歴代正史の天文志に詳しく書かれていまして、当時実際に天変判断の典拠とされたものに近いと思われる『晋書』天文志は邦訳が『(世界の名著)中国の科学』に載っていますのでご覧ください。

>  持統朝は、正確な予測が出来るようになったので、それを特筆して書いたという解釈

元嘉暦を用いていた百済から暦学が推古朝に伝わって以来、儀鳳暦を導入するまで用いていたと考えられるその元嘉暦は、南朝宋の元興22年(445)から施行されていた暦法ですが、日食計算法そのものがそれほど精密でなかったほかに、
持統四年(690)の当時、作られてから既にほぼ250年経過していました。
一方、儀鳳暦(麟徳暦)は麟徳2年(665)から唐朝で施行されている、いわば最新の暦法ですね。日食予報の精度もよくなっています。ちなみに統一新羅でも674年から施行されていたようです。

> こうした術がきわめて政治的(国家的)な存在であったことは確かです

出生時の惑星配置にもとづく、いわゆる西洋占星術が個人的・私的占星術であるのに対して
唐朝ごろまでの中国の天文観測にもとづく占星術は国家的・公的占星術という対比のしかたをしますね。

そして天変の中では特に彗星と日食が、国家的危機の予兆としておそれられたようです。彗星は、箒星として世の中を一掃し、君主が兵乱や喪により代わる前兆として、
また日食は、陰が陽に侵食し、臣が君主を弱くする前触れとして。

ですので、あらかじめ日食到来を知ることは、凶事発生の予防上、必須だったわけですね。
彗星は予測不可能でしたが日食予報が可能となると暦の重要な機能とされ、日食予報が外れるようになったことが暦法改正の主な動機となり、
麟徳暦も開元9年(721)以降は日食予報が当たらなくなったとして改暦の動きがおこり、729年から大衍暦に代えられたようです。
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