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天寿国の背景と「君親の恩の為」の造寺: 倉本尚徳「北朝・隋代の無量寿・阿弥陀像銘」

2011年07月01日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』のうちの個々の論文については、現在、必要があって四天王寺関連の資料や論文を読み直していることもあって、加藤謙吉氏の「四天王寺と難波吉士」を最初に取り上げようと思ったのですが、その前に、ぜひ共通理解としておきたい論文があります。

倉本尚徳「北朝・隋代の無量寿・阿弥陀像銘--特に『観無量寿経』との関係について--」
(『仏教史学研究』第52巻第2号、2010年3月)

です。

 倉本さんは、北朝期から隋唐にかけての石刻資料や敦煌文献などを精査し、当時の仏教信仰の実態を明らかにする論文を次々に発表している若手研究者です。

 西方往生を願う中国の造像銘に関しては、北朝期の龍門石窟などではその浄土の仏の尊名を「無量寿」と記している例が多く、唐代には「阿弥陀」と記されるものが主流となるという塚本善隆先生の戦前の論文が有名です。以後も佐藤智水氏や久野美樹氏その他の研究者によって研究が進められてきましたが、このところ、中国では新出資料が続々と公開されるようになってきました。

 そこで、それらを出来る限り収集し、分析した力作がこの論文です。ただ、曇鸞の活動した地域の特徴とか、北斉以後は『観無量寿経』の影響で、脇侍の二菩薩も造ったことを明記する例が増えるなど、興味深い指摘をたくさんされている倉本さんには申し訳ないのですが、ここでは聖徳太子研究に関わる部分だけを、勝手な形で抜き出して紹介させてもらいます。

 倉本論文は、無量寿像銘は北魏では河南、とりわけ龍門に集中しているものの、北斉・北周期になると各地に見られるようになって特に山東に多く、北斉後半から隋にかけては阿弥陀像銘が河北を中心として急増し、各地で主流となる一方、無量寿像銘は急速に減少して、山東益都(青州)の雲門山に集中するようになると説きます。

 南北朝の早い時期にあっては、浄土に生まれたいとする信仰は、弥勒の兜率天その他、仏教の種々の天への生天思想や道教の昇仙思想などと混淆していて、「亡者生天」などの定型句がしばしば用いられ、また『法華経』信仰による「託生西方妙楽国土」などの定型句もよく用いられていたことが知られています。

 阿弥陀像銘が増える北斉から隋の時代には、阿弥陀仏の浄土に往生したいとする信仰が次第に明確になっていきますが、紀年を有する北斉・隋の阿弥陀造像銘中では、「極楽」の語が見えるのは555年の銘の「往生西方極楽世界」1例しかなく、以後も中国では「極楽」の語は特別に重視されることはありません。倉本さんは、この時期には、浄土に生まれたいという願いは様々な文句で表現されているのであって、それこそが新たな浄土信仰が生成していく様子を示すものとします。

 ただ、北朝・隋代の紀年を有する阿弥陀造像銘では、それまでの造像銘と違って「生天」を願う表現が見られなくなることに、倉本さんは注意します。つまり、阿弥陀浄土信仰が確立していくこの時期は、往生に関しては様々な表現が用いられていてまだ定型句が固まっていないものの、阿弥陀浄土への往生を「生天」という語で表現することはなくなった、ということです。これは重要ですね。

 この指摘をこのブログでやっている聖徳太子研究にあてはめると、「天寿国」に「生」じたであろう我が大王の姿を見たいとする「天寿国繍帳銘」は、繍帳の図柄は阿弥陀浄土に通じる点がいくつかあるものの、阿弥陀浄土への往生とは異なるもの、あるいは、阿弥陀浄土の信仰や絵柄の表現が固まる前の混淆した信仰を背景としたものということになりそうです。『日本書紀』では、舒明天皇12年(640)に恵隠法師に『無量寿経』を講じさせたという記事が見えますが、これは早くから指摘されているように、孝徳天皇の白雉3年(652)の同趣旨の記事の重出の可能性が高いと見るべきでしょう。

 また、阿弥陀三尊をおさめた橘夫人念持仏厨子や、法華寺の阿弥陀浄土院などが示すように、橘三千代とその娘である光明皇后の強い阿弥陀浄土信仰は有名であって、その頃には阿弥陀浄土への信仰と極楽の表現、そして兜率信仰と兜率天の図の表現は中国の流行を受けてほぼ確立しています。したがって、思想内容と図柄だけについて言えば、何の浄土とも天とも決めがたいまま論争が続いている「天寿国繍帳」とその銘の成立の下限は、おのずと定まることになります。

 また、倉本論文の精細な銘文一覧表を眺めていてまず目につくのは、無量寿仏像や阿弥陀仏像を造像する供養の功徳によって往生を願うものでありながら、「為皇帝陛下」などと記する銘文の圧倒的な多さです。これは、言うまでもなく、亡くなった先帝の追善などではなく、造像の功徳によって現在の皇帝の「おん為」を願うものです。

 皇帝も没後は往生されますように、ということも願意として含まれるかもしれませんが、明確に示されることはありません。主な目的は、あくまでも現在の皇帝の長寿と繁栄です。「為国主・父母・過去現在眷属」とか、「上為皇帝・晋国公・群官・師僧・并……為七世父母、下及法界衆生」など、いろいろなパターンがあるものの、現在の皇帝の為という点をまず強調することは、どの場合でも同じです。

 むろん、「亡父亡母」の為に無量寿を造像したとか、阿弥陀像の造像の功徳により「七世父母」が往生することを願う、などと記すだけのものも多いのですが、多少大がかりな造像の場合は、「皇帝陛下のおん為」という点を先にかかげ、その後で自分の亡き家族が往生するよう願う例がほとんどです。

 北魏の女性が施主となった銘に、「為父母兄弟姉妹、造無量寿仏」とあって皇帝などに触れない例も見えるものの、この場合、すべての家族が死んでいるとは思えません。亡くなっている家族は浄土へ、そして生きている家族については生前は長寿・安穏、没後は善処に生まれますように、という願いでしょう。

 すなわち、「誰々の為」の造像というと、亡くなった人のための追善供養と思われがちなのですが、それは葬式仏教が定着した現代の日本の常識にすぎません。

 私は、「上代日本仏教における誓願について--造寺造像伝承再考--」>(『印度學佛教學研究』40巻2号、1992年3月)という昔の論文で、受容期の日本の仏教は「奉為(おんため)」の仏教であり、氏族が「君親の恩の為」にそれぞれ寺を競い造ったというのは、「君」のパワーを増大させて庇護してもらうという面が強く、そうした造寺は天皇や蘇我氏への忠誠を示すものだと指摘しました。

 蘇我系の推古天皇を擁立し、造寺造像の技術者を独占していた蘇我氏が、自分たちが重視する氏族だけ優先して技術者を回していたのですから、それぞれの氏族が現体制への忠誠を示すために寺を「競ひ造る」のは当然なのです。当初の上宮王家はそうした氏族の一つという面を持っています。

 そして、その拙論では詳しく論じてませんが、仏教受容期の日本にあっては、勢力のある氏族が自分たちの父祖の為を願って寺を建立する場合、その父祖とは、某天皇に仕えてその功績によって現在の自分の職分を保証してくれている父祖、ということになります。しかも、推古32年には、各寺に造寺の由来を提出させるなどしており、そうした管理は天武朝にはさらに強まるのですから、最初期の日本仏教、つまり、都の周辺で蘇我氏および蘇我氏と関係の深い氏族が次々に建立していった寺においては、国家と無縁の先祖供養などありえません。また、各氏族は「某天皇のために先祖の誰々がこの寺を造った」などとする縁起を(作成ないし書き換えて)提出したはずです。

 「先祖供養の氏族仏教から、国家仏教へ」という田村圓澄流の図式や、「蘇我氏=先祖供養による現世利益の呪術的仏教 ←→ 聖徳太子=世間虚仮を自覚した普遍宗教」といった二葉憲香流の図式は、当時の仏教の実態と合いません。
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2 コメント

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倉本論文は重要ですよね (もろしげき)
2011-07-03 10:14:58
倉本さんの論文は私も注目しています。奈良~平安初期ぐらいまでの日本仏教を考える上で、とても重要だと思っています。私もそうですが、倉本さんは山部能宜さんの観仏信仰研究に影響を受けていますね。
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おっしゃる通り (当ブログ作者)
2011-07-04 08:25:54
そうですね。『日本霊異記』が残っておらず、最澄・徳一・空海の著作だけしか無かったら、我々の奈良・平安初の仏教のイメージはかなり違っていたであろうように、倉本論文が扱っているような金石史料や敦煌写本の後記などを無視したら、当時の中国仏教の実態と、その影響を受けている朝鮮・日本仏教の実態は分かりませんね。『日本霊異記』にしても、素朴な民間逸話集などではなく、宗派的偏見に基づいて強烈な歪曲宣伝をやっているわけですが、そのこと自体が当時の仏教の実態を示す史料になってますしね。
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