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中国撰述説支持の撤回と以後の摸索: 曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』」(1)

2011年07月19日 | 三経義疏
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所収の個別論文紹介の第四弾は、曾根正人さんの三経義疏論文です。

 『アリーナ 2008』に掲載された曾根さんの「廐戸皇子の学んだ教学と『三経義疏』」については、以前、このブログで紹介しました。すなわち、『法華義疏』の内容や、厩戸皇子の師とされる高句麗の慧慈の学系などについて、曾根論文が重要な指摘をしていることについては評価するものの、曾根論文が大前提としている藤枝晃先生の『勝鬘経義疏』中国撰述説は誤りであり、曾根論文での考察結果は、藤枝説に従わなくてもそのまま生かせるはずだ、と論じたのです。

 今回の曾根論文はその論文の増訂版ですが、この間に私の藤枝説批判の論文が2篇刊行され(そのうち、短い方はPDFで読めます)、また639年に書かれた百済王室の「舎利奉安記」の文言との類似から百済仏教と三経義疏の関係の深さを強調した瀬間正之さんの論文(増訂されて『日本書紀の謎と聖徳太子』に収録)が刊行されたことなどを考慮したためでしょうが、今回の論文では曾根さんは藤枝説に従わなくなりました。

 これまでは藤枝説支持で論文を書いて来たことは明記されていませんが、「中国以外の成立とする有力説も見えている」(267頁)として注で石井の2本の論文を引き、自説の重要な根拠の一つとしていた中国撰述説が崩れたことを率直に認め、そのうえで様々な問題に誠実に取り組まれたことは高く評価されるべきでしょう。

 さて、曾根論文では、『勝鬘経義疏』中国撰述説が絶対のものでなくなったことを認めたのですが、だからといって三経義疏をただちに厩戸皇子撰述とすることはできないとし、その立場から様々な問題を提示しています。まず、『勝鬘経義疏』と『法華義疏』と『維摩経義疏』は性格が異なることが早くから指摘されている以上、『勝鬘経義疏』が中国撰述でないということになっても、他の2疏については検討がまだ十分でないこと、『勝鬘経義疏』は中国撰述説でないとしても、朝鮮撰述か日本撰述かなどはまだ明らかにされていないことが指摘されます。

 また、仏教受容期であって留学もしていない厩戸皇子にこれだけのものが書くことが可能だったのか、三経義疏が日本製ならば、以後、日本僧の著作が残っておらず、奈良後期まで空白になってしまうのはなぜか、厩戸皇子の師とされる高句麗の慧慈は三論宗であったと伝えられており、三論教学は江南の成実学が強い三経義疏とは学風が異なる以上、三経義疏は厩戸の著作でないとすべきなのか、従来の伝承説が示すような慧慈の学系を考え直すべきなのか、といった種々の疑問が提示され、そのいくつかについて実際に検討がなされています。

 つまり、明確な結論を出すには至らないものの、三経義疏中国撰述を前提としてきた自説とぶつかる状況に正面から向き合い、いろいろ摸索する中で、様々な問題点がこれまで以上に明確になって浮かびあがってきたという状況でしょうか。

 そうした摸索の中で、曾根さんは、「日本人撰述・厩戸皇子撰述の新たな可能性が出てくることはあり得る」と認めつつ、「日本人や厩戸皇子以外の撰述ではない」という結論を導くのは、極めて難しい」と述べます(280頁)。そして、三経義疏が中国成立でなく、仏教を受容して間もない日本人の作でもない可能性が高いとなれば、第一の候補は百済・高麗僧であり、「飛鳥仏教との親密度からすれば、百済僧の可能性がもっとも高いと考えられる」とまとめています。これは大きな変化ですね。

 曾根論文は、その結論において、三経義疏そのものの研究や百済での発掘成果に関する研究の進展によっては、『三経義疏』の背景にある「朝鮮仏教像」そのものが修正されていくことも考えられるとし、次のように結んでいます。

「『三経義疏』をめぐる問題は、いまや厩戸皇子や飛鳥仏教を超えて東アジア仏教の問題なのである。」(280頁)

 こうした言葉は、従来の日本史研究者の発想からは出てこないものであり、三経義疏研究が新たな段階に入ったことを示すものです。

 なお、これまでの私の論文では『勝鬘経義疏』の変則語法を中心に論じていることは確かですが、その関連で『法華義疏』と『維摩経義疏』の漢文の変則さについても触れており、こちらも中国撰述でありえないことを示してあります。『法華義疏』と『維摩経義疏』の変則語法に関する詳しい検討は、この秋に論文原稿を提出して来年刊行される予定です。ただ、語法や思想の特色を指摘する程度で、それ以上には踏み込めないでしょう。慎重に論じようとすると、けっこう手間がかかりますので。