「四 『α群中国人表記説』」でも、事実誤認の妄想によって私見を批判している。「α群中国人表記説」の最大の音韻的根拠は、清濁異例の現象にある。α群には、日本語の濁音音節を表すのに清音字を使用した例が、七字種・延べ十一例もある。「水」を「瀰都(ミツ)」、「枝」を「曳多(エタ)」など、日本人なら清濁を間違えるはずがない。
書紀の古写本について声点(アクセント符号)を調べたところ、予想通り、これらの異例音節はすべて高平調のアクセントをもっていた。高平調の音節は発端高度が高く、喉頭の緊張が持続するので、声帯の振動が妨げられ、濁音要素が減殺される。その結果、高平調の濁音音節を中国人が清音と聞き誤ったのだろう。森(一九九一)で指摘したとおりである。井上氏はこれを次のように批判している。
「彼は間違えた箇所がみな上声であることを発見して喜んでいるが、ならば、上声の濁音だと必ず間違えるのかと尋ねたい。そういう分析をしてほしいと思うが、恐らくそれは意味がないだろう。なぜなら、先ず第一に、濁音と清音を間違えるのは現代中国人の話であって、唐代の中国語には濁音の声母があったのだから、唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない。つまりこの論拠そのものが時代錯誤である。」(九三頁)
私は「上声の濁音だと必ず間違える」などと言っていない。また、「唐代の中国語に濁音の声母があった」というのは初歩的な誤りである。「名論文」と讃える平山(一九六七)のどこを読んでいるのか。もちろん森(一九九一)の「隋唐字音概説」や『日本書紀の謎を解く』でも説明している。後者なら「呉音と漢音」の項でこう述べている。
「一方の漢音は唐代北方音の声母の二大音声変化現象を反映しています。音声変化の第一は「無声音化」といい全濁音の有声要素が弱化しました。漢音は「貧・ヒン」「弟・テイ」「強・キョウ」「尚・ショウ」のように清音になります。」(六十頁)
井上氏は唐代北方音の「全濁音無声音化」という初歩的知識を欠いているだけでなく、虚偽を捏造して私を批判しているのだ。井上氏の評論文は私への罵詈雑言で満ちているが、この第四節の末尾でも、私を「門外漢の早とちり」「アマチュアの水準」と嘲っている(九四頁)。箴言に曰く、「文は人なり」。学問にはプロもアマもない。ただし学者にはプロとアマがいる。
「五 『書紀文章論』」でも事実誤認が甚だしい。最後の項では、嘘をついて私見を批判している。「α群中国人述作説」の証拠は音韻のみならず文章にも見られる。巻一四「雄略即位前紀」に、安康天皇が皇后に「吾妹」と呼びかける文章がある。そこに、「称妻為妹、蓋古之俗乎。〈妻を称ひて妹とするは、蓋し古の俗か。〉」という分注がある。
男が妻を「吾妹」と呼ぶのは上代でも一般的な慣習だが、それを不思議に思って、「昔の習俗か」と注釈を加えている。α群の述作者は日本人の常識を知らなかったのだ。
この私見に対して井上氏は次のように批判する。
「次にこの注を付けた「吾妹」の用例を調べてみると、神代紀上第五段一書第六(イザナミに対するイザナキの呼びかけ)、神武即位前紀戊午年十二月丙申条(長髄彦が妹の三炊屋媛に冠した語)、安康元年二月紀(大草香皇子が妹の幡梭皇女を指して言った語)とこの雄略即位前紀の四例であるが、雄略紀以外はみな実の妹を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこういう注記があっても何もおかしくはない。 」(九九~一〇〇頁)
これは嘘だ。最初の神代紀上第五段一書第六は次のとおり(本書第五章第三節参照)。
「時伊奘冉尊曰、愛也吾夫君、言如此者、吾当縊殺汝所治国民、日将千頭。伊奘諾尊乃報之曰、愛也吾妹、言如此者、吾則当産日将千五百頭。【伊奘諾尊乃ち報へて曰く、愛しき吾が妹、如此言りたまはば、吾は日に千五百頭を産まむ】」
「吾夫君」に対して「吾妹」が呼応している。夫婦である。井上氏が明らかな嘘をついてまで私を中傷する目的は何なのか。
「六 『書紀編修論』」も事実誤認と的外れな皮肉が満載である。私は「憲法十七条」から十七例の倭習を摘出して、「文体的にも文法的にも立派な文章」という吉川幸次郎説を批判している。井上氏は「『倭習十七条』」の項で、「憲法には古典の教養だけでなく卓絶した思索の深みがあり、(中略)これを書いた人物は突出した天才であって」と述べ、最後に、「そういう点を全く顧慮せず、得々と誤用を論う姿は滑稽でさえある」と、皮肉で締めくくる。私は「憲法」の文章を検討して、事実を発見し事実を提示したのだ。
この節の最後の項「森説の読み替え」では、次のように述べている。
「『書紀』が杜撰な史書であることは文献学者ならば誰でも知っている。本来、区分論のような緻密な検証に堪えうるような書には見えない。にも関わらず、森が検出したようにこれだけはっきりした違いが出るのは、むしろ新しい編集の痕跡と見るべきであり、しかもその編集作業は非常に短時間に行われた可能性が大きい。私は森の仕事をこのように読み替える。」(一一〇頁)
井上氏は他者が検出した事実に印象批評を加えているだけだ。井上氏の師匠筋に当たる坂本太郎はこう言った。「記紀で研究する前に、記紀を研究せねばならぬ」。そして自分自身それを実践した。井上氏は自ら汗を流さず、「門外漢」の私が発見した数々の事実を、或いは無視し、或いは曲解し、嘘をついてまで私を誹謗中傷する。坂本の言うように、書紀の文献批判こそ日本古代史を専攻する「文献史学者」の本来の仕事ではないのか。
「おわりに」では、まず拙著の「書紀研究論」に触れて、「自らの書紀区分論を基準にして先学をこきおろしてゆくところ」など、「読むに堪えない」という。これも印象批評だ。私は事実に即して書紀研究史を記したまでである。
最後に井上氏は、二〇〇九年に杭州のシンポジウムで私の報告を聴き、「自説に対する揺るぎない自信と文献史学者に対する明確な敵意を感じ取った」と言う。続けて自らの勇気を誇り、見得を切っている。
「私が森説批判を依頼されたことについて、何人かの人から「やめた方がいい」と忠告を受けた。どうも日本国内では森説を批判しにくいらしい。ならば国内にいない私がやるしかあるまいと決意を新たにした。以後、読者は森説と本稿を比べて、どちらがより正しいかを判断していただきたいと思う。」(一一二頁)
「文献史学者」の代表として、憎い敵の首級を挙げるべく、単騎勇ましく出陣したような口吻である。しかし井上氏は実証研究という本物の槍をもたない。妄想の刀を振り回し、出撃直後に落馬してしまった。
ここに「妄想史学者」の命脈は尽きた。学問は非情だ。
書紀の古写本について声点(アクセント符号)を調べたところ、予想通り、これらの異例音節はすべて高平調のアクセントをもっていた。高平調の音節は発端高度が高く、喉頭の緊張が持続するので、声帯の振動が妨げられ、濁音要素が減殺される。その結果、高平調の濁音音節を中国人が清音と聞き誤ったのだろう。森(一九九一)で指摘したとおりである。井上氏はこれを次のように批判している。
「彼は間違えた箇所がみな上声であることを発見して喜んでいるが、ならば、上声の濁音だと必ず間違えるのかと尋ねたい。そういう分析をしてほしいと思うが、恐らくそれは意味がないだろう。なぜなら、先ず第一に、濁音と清音を間違えるのは現代中国人の話であって、唐代の中国語には濁音の声母があったのだから、唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない。つまりこの論拠そのものが時代錯誤である。」(九三頁)
私は「上声の濁音だと必ず間違える」などと言っていない。また、「唐代の中国語に濁音の声母があった」というのは初歩的な誤りである。「名論文」と讃える平山(一九六七)のどこを読んでいるのか。もちろん森(一九九一)の「隋唐字音概説」や『日本書紀の謎を解く』でも説明している。後者なら「呉音と漢音」の項でこう述べている。
「一方の漢音は唐代北方音の声母の二大音声変化現象を反映しています。音声変化の第一は「無声音化」といい全濁音の有声要素が弱化しました。漢音は「貧・ヒン」「弟・テイ」「強・キョウ」「尚・ショウ」のように清音になります。」(六十頁)
井上氏は唐代北方音の「全濁音無声音化」という初歩的知識を欠いているだけでなく、虚偽を捏造して私を批判しているのだ。井上氏の評論文は私への罵詈雑言で満ちているが、この第四節の末尾でも、私を「門外漢の早とちり」「アマチュアの水準」と嘲っている(九四頁)。箴言に曰く、「文は人なり」。学問にはプロもアマもない。ただし学者にはプロとアマがいる。
「五 『書紀文章論』」でも事実誤認が甚だしい。最後の項では、嘘をついて私見を批判している。「α群中国人述作説」の証拠は音韻のみならず文章にも見られる。巻一四「雄略即位前紀」に、安康天皇が皇后に「吾妹」と呼びかける文章がある。そこに、「称妻為妹、蓋古之俗乎。〈妻を称ひて妹とするは、蓋し古の俗か。〉」という分注がある。
男が妻を「吾妹」と呼ぶのは上代でも一般的な慣習だが、それを不思議に思って、「昔の習俗か」と注釈を加えている。α群の述作者は日本人の常識を知らなかったのだ。
この私見に対して井上氏は次のように批判する。
「次にこの注を付けた「吾妹」の用例を調べてみると、神代紀上第五段一書第六(イザナミに対するイザナキの呼びかけ)、神武即位前紀戊午年十二月丙申条(長髄彦が妹の三炊屋媛に冠した語)、安康元年二月紀(大草香皇子が妹の幡梭皇女を指して言った語)とこの雄略即位前紀の四例であるが、雄略紀以外はみな実の妹を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこういう注記があっても何もおかしくはない。 」(九九~一〇〇頁)
これは嘘だ。最初の神代紀上第五段一書第六は次のとおり(本書第五章第三節参照)。
「時伊奘冉尊曰、愛也吾夫君、言如此者、吾当縊殺汝所治国民、日将千頭。伊奘諾尊乃報之曰、愛也吾妹、言如此者、吾則当産日将千五百頭。【伊奘諾尊乃ち報へて曰く、愛しき吾が妹、如此言りたまはば、吾は日に千五百頭を産まむ】」
「吾夫君」に対して「吾妹」が呼応している。夫婦である。井上氏が明らかな嘘をついてまで私を中傷する目的は何なのか。
「六 『書紀編修論』」も事実誤認と的外れな皮肉が満載である。私は「憲法十七条」から十七例の倭習を摘出して、「文体的にも文法的にも立派な文章」という吉川幸次郎説を批判している。井上氏は「『倭習十七条』」の項で、「憲法には古典の教養だけでなく卓絶した思索の深みがあり、(中略)これを書いた人物は突出した天才であって」と述べ、最後に、「そういう点を全く顧慮せず、得々と誤用を論う姿は滑稽でさえある」と、皮肉で締めくくる。私は「憲法」の文章を検討して、事実を発見し事実を提示したのだ。
この節の最後の項「森説の読み替え」では、次のように述べている。
「『書紀』が杜撰な史書であることは文献学者ならば誰でも知っている。本来、区分論のような緻密な検証に堪えうるような書には見えない。にも関わらず、森が検出したようにこれだけはっきりした違いが出るのは、むしろ新しい編集の痕跡と見るべきであり、しかもその編集作業は非常に短時間に行われた可能性が大きい。私は森の仕事をこのように読み替える。」(一一〇頁)
井上氏は他者が検出した事実に印象批評を加えているだけだ。井上氏の師匠筋に当たる坂本太郎はこう言った。「記紀で研究する前に、記紀を研究せねばならぬ」。そして自分自身それを実践した。井上氏は自ら汗を流さず、「門外漢」の私が発見した数々の事実を、或いは無視し、或いは曲解し、嘘をついてまで私を誹謗中傷する。坂本の言うように、書紀の文献批判こそ日本古代史を専攻する「文献史学者」の本来の仕事ではないのか。
「おわりに」では、まず拙著の「書紀研究論」に触れて、「自らの書紀区分論を基準にして先学をこきおろしてゆくところ」など、「読むに堪えない」という。これも印象批評だ。私は事実に即して書紀研究史を記したまでである。
最後に井上氏は、二〇〇九年に杭州のシンポジウムで私の報告を聴き、「自説に対する揺るぎない自信と文献史学者に対する明確な敵意を感じ取った」と言う。続けて自らの勇気を誇り、見得を切っている。
「私が森説批判を依頼されたことについて、何人かの人から「やめた方がいい」と忠告を受けた。どうも日本国内では森説を批判しにくいらしい。ならば国内にいない私がやるしかあるまいと決意を新たにした。以後、読者は森説と本稿を比べて、どちらがより正しいかを判断していただきたいと思う。」(一一二頁)
「文献史学者」の代表として、憎い敵の首級を挙げるべく、単騎勇ましく出陣したような口吻である。しかし井上氏は実証研究という本物の槍をもたない。妄想の刀を振り回し、出撃直後に落馬してしまった。
ここに「妄想史学者」の命脈は尽きた。学問は非情だ。