聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

森博達「井上亘『日本書紀の謎は解けたか』批判」(2)……森氏自身による反論コメント

2011年07月17日 | 論文・研究書紹介
 「四 『α群中国人表記説』」でも、事実誤認の妄想によって私見を批判している。「α群中国人表記説」の最大の音韻的根拠は、清濁異例の現象にある。α群には、日本語の濁音音節を表すのに清音字を使用した例が、七字種・延べ十一例もある。「水」を「瀰(ミツ)」、「枝」を「曳(エ)」など、日本人なら清濁を間違えるはずがない。

 書紀の古写本について声点(アクセント符号)を調べたところ、予想通り、これらの異例音節はすべて高平調のアクセントをもっていた。高平調の音節は発端高度が高く、喉頭の緊張が持続するので、声帯の振動が妨げられ、濁音要素が減殺される。その結果、高平調の濁音音節を中国人が清音と聞き誤ったのだろう。森(一九九一)で指摘したとおりである。井上氏はこれを次のように批判している。

  「彼は間違えた箇所がみな上声であることを発見して喜んでいるが、ならば、上声の濁音だと必ず間違えるのかと尋ねたい。そういう分析をしてほしいと思うが、恐らくそれは意味がないだろう。なぜなら、先ず第一に、濁音と清音を間違えるのは現代中国人の話であって、唐代の中国語には濁音の声母があったのだから、唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない。つまりこの論拠そのものが時代錯誤である。」(九三頁)
 
 私は「上声の濁音だと必ず間違える」などと言っていない。また、「唐代の中国語に濁音の声母があった」というのは初歩的な誤りである。「名論文」と讃える平山(一九六七)のどこを読んでいるのか。もちろん森(一九九一)の「隋唐字音概説」や『日本書紀の謎を解く』でも説明している。後者なら「呉音と漢音」の項でこう述べている。

  「一方の漢音は唐代北方音の声母の二大音声変化現象を反映しています。音声変化の第一は「無声音化」といい全濁音の有声要素が弱化しました。漢音は「貧・ヒン」「弟・テイ」「強・キョウ」「尚・ショウ」のように清音になります。」(六十頁)

 井上氏は唐代北方音の「全濁音無声音化」という初歩的知識を欠いているだけでなく、虚偽を捏造して私を批判しているのだ。井上氏の評論文は私への罵詈雑言で満ちているが、この第四節の末尾でも、私を「門外漢の早とちり」「アマチュアの水準」と嘲っている(九四頁)。箴言に曰く、「文は人なり」。学問にはプロもアマもない。ただし学者にはプロとアマがいる。


 「五 『書紀文章論』」でも事実誤認が甚だしい。最後の項では、嘘をついて私見を批判している。「α群中国人述作説」の証拠は音韻のみならず文章にも見られる。巻一四「雄略即位前紀」に、安康天皇が皇后に「吾妹」と呼びかける文章がある。そこに、「称妻為妹、蓋古之俗乎。〈妻を称ひて妹とするは、蓋し古の俗か。〉」という分注がある。

 男が妻を「吾妹」と呼ぶのは上代でも一般的な慣習だが、それを不思議に思って、「昔の習俗か」と注釈を加えている。α群の述作者は日本人の常識を知らなかったのだ。

 この私見に対して井上氏は次のように批判する。
 
  「次にこの注を付けた「吾妹」の用例を調べてみると、神代紀上第五段一書第六(イザナミに対するイザナキの呼びかけ)、神武即位前紀戊午年十二月丙申条(長髄彦が妹の三炊屋媛に冠した語)、安康元年二月紀(大草香皇子が妹の幡梭皇女を指して言った語)とこの雄略即位前紀の四例であるが、雄略紀以外はみな実の妹を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこういう注記があっても何もおかしくはない。 」(九九~一〇〇頁)

 これは嘘だ。最初の神代紀上第五段一書第六は次のとおり(本書第五章第三節参照)。

  「時伊奘冉尊曰、愛也吾夫君、言如此者、吾当縊殺汝所治国民、日将千頭。伊奘諾尊乃報之曰、愛也吾妹、言如此者、吾則当産日将千五百頭。【伊奘諾尊乃ち報へて曰く、愛しき吾が妹、如此言りたまはば、吾は日に千五百頭を産まむ】」

「吾夫君」に対して「吾妹」が呼応している。夫婦である。井上氏が明らかな嘘をついてまで私を中傷する目的は何なのか。


 「六 『書紀編修論』」も事実誤認と的外れな皮肉が満載である。私は「憲法十七条」から十七例の倭習を摘出して、「文体的にも文法的にも立派な文章」という吉川幸次郎説を批判している。井上氏は「『倭習十七条』」の項で、「憲法には古典の教養だけでなく卓絶した思索の深みがあり、(中略)これを書いた人物は突出した天才であって」と述べ、最後に、「そういう点を全く顧慮せず、得々と誤用を論う姿は滑稽でさえある」と、皮肉で締めくくる。私は「憲法」の文章を検討して、事実を発見し事実を提示したのだ。

 この節の最後の項「森説の読み替え」では、次のように述べている。

  「『書紀』が杜撰な史書であることは文献学者ならば誰でも知っている。本来、区分論のような緻密な検証に堪えうるような書には見えない。にも関わらず、森が検出したようにこれだけはっきりした違いが出るのは、むしろ新しい編集の痕跡と見るべきであり、しかもその編集作業は非常に短時間に行われた可能性が大きい。私は森の仕事をこのように読み替える。」(一一〇頁)
 
 井上氏は他者が検出した事実に印象批評を加えているだけだ。井上氏の師匠筋に当たる坂本太郎はこう言った。「記紀で研究する前に、記紀を研究せねばならぬ」。そして自分自身それを実践した。井上氏は自ら汗を流さず、「門外漢」の私が発見した数々の事実を、或いは無視し、或いは曲解し、嘘をついてまで私を誹謗中傷する。坂本の言うように、書紀の文献批判こそ日本古代史を専攻する「文献史学者」の本来の仕事ではないのか。
 

 「おわりに」では、まず拙著の「書紀研究論」に触れて、「自らの書紀区分論を基準にして先学をこきおろしてゆくところ」など、「読むに堪えない」という。これも印象批評だ。私は事実に即して書紀研究史を記したまでである。

 最後に井上氏は、二〇〇九年に杭州のシンポジウムで私の報告を聴き、「自説に対する揺るぎない自信と文献史学者に対する明確な敵意を感じ取った」と言う。続けて自らの勇気を誇り、見得を切っている。
  
  「私が森説批判を依頼されたことについて、何人かの人から「やめた方がいい」と忠告を受けた。どうも日本国内では森説を批判しにくいらしい。ならば国内にいない私がやるしかあるまいと決意を新たにした。以後、読者は森説と本稿を比べて、どちらがより正しいかを判断していただきたいと思う。」(一一二頁)

 「文献史学者」の代表として、憎い敵の首級を挙げるべく、単騎勇ましく出陣したような口吻である。しかし井上氏は実証研究という本物の槍をもたない。妄想の刀を振り回し、出撃直後に落馬してしまった。

 ここに「妄想史学者」の命脈は尽きた。学問は非情だ。

コメント (4)

森博達「井上亘『日本書紀の謎は解けたか』批判」(1)……森氏自身による反論コメント

2011年07月17日 | 論文・研究書紹介
 現在、このブログでは、新刊の大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』を取り上げ、個々の論文の内容を紹介する連載をやっています。これまで大山誠一論文・加藤謙吉論文・八重樫直比古論文について論じてきており、八重樫さんからはコメント欄にコメントを寄せて頂きました。

 それに続いて、森博達さんが、森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)を激しく批判した井上亘氏の論文「『日本書紀』の謎は解けたか」に対する批判をコメント欄に投稿してくださったのですが、長文すぎてコメント欄の字数制限ではじかれてしまったため、以下のように、本文の記事として2回に分けて掲載させていただきます。
(ブログ作者:石井公成)

===================================

  井上亘「日本書紀の謎は解けたか」批判

                             森 博達

 貴ブログ、いつも楽しみに拝読しています。先日は大山氏編『日本書紀の謎と聖徳太子』の発刊をお教え下さり、有難うございます。早速購入したところ、三日後に「著者」からの献本が届きました。どなたにお礼を言っていいのやら、この場を拝借してお礼申し上げます。いろいろな意味で興味深く閲読しました。

 折しも先日お話した拙著『日本書紀成立論』(仮題)が7月15日に脱稿しました。そこで急遽、大山編著所収の論文数篇にも言及できました。書紀α群β群の論と関連して興味深かったのは北條論文。祟神の記事は「仏神」の例を除いてβ群に偏在するとの指摘。八重樫論文も『六度集経』の新知見が得られて有益でした。『六度集経』の利用箇所は上宮家滅亡記事の原資料にあったと八重樫氏はお考えのようですね。私はこの部分は後人の加筆だと考え、拙著原稿で詳述しました。

 最も興味深かったのは、やはり井上論文の私説批判です。これには上記『日本書紀成立論』の注として長文の反論を書き、貴ブログのコメント欄に拙著原稿の該当部分を投稿しました。14日のことですが、届いていないとの由を伺い、再度投稿する次第です。長くて恐縮ですが、以下のとおりです。

森博達『日本書紀成立論』(仮題、2011年9月出版予定)第4章第1節【注】

 ごく最近、大山氏編『日本書紀の謎と聖徳太子』が発売されたので(二〇一一年六月十五日刊)、一読した。そこでも大山氏は「私見に対する学問的反論は皆無である」と述べている(七頁)。もちろん「聖徳太子=道慈創作説」についての私の批判に一切答えていない。その代わりに、拙著(一九九九)『日本書紀の謎を解く』に対する井上亘氏の批評「『日本書紀』の謎は解けたか」を掲載した。そして井上論文を紹介して、次のように私を批判している。

  「今回の井上氏の論考は、『書紀』の謎を解いたと自称する森説のほとんど全論点を否定したものとなっており、結果として森氏の理解が皮相にして粗雑だったということにならざるを得ないものである。」(十二頁)

 本書第一章や第二章第二節で述べたように、大山氏はかつて私の「憲法偽作説」を紹介し、「研究の緻密さに感嘆した」と述べている(二〇〇〇年「聖徳太子関係史料の再検討」『東アジアの古代文化』一〇四号)。また「聖徳太子関係史料の再検討(その二)」(二〇〇一年『東アジアの古代文化』一〇六号)では、私の書紀区分論を採用している。ところが私が大山氏の「聖徳太子=道慈創作説」を「妄想」として批判したところ、途端に口を拭ってしまった。今度ようやく口を開くや、井上論文のお蔭で、森の研究に対する印象が、「緻密」から「皮相にして粗雑」に変わったという。懐手で走狗を放つ。姑息な遣り口だ。だが、いずれにせよ拙著への批判は熱烈歓迎である。

 井上氏の評論は、「森博達『日本書紀の謎を解く』について、その学説を解説し、その限界を指摘するもの」という。四十五頁。大山氏の掲載論文と並ぶ長篇であり、「はじめに」・本文五節・「おわりに」からなる。全篇、基礎知識の欠如を晒し、事実誤認に満ちている。誤りは枚挙に遑がない。ここでは各節から代表的な誤りを指摘しておこう。


 「はじめに」では、拙著が「文献史学に対する挑戦」だと憤る。井上氏は「音韻学と文献史学の双方の知識」を備えているそうである。そこで大山氏の依頼を受けて二〇〇九年十二月に報告を行ったという。今回の評論はそれを増補したもの。

「一 中国音韻学」では、最初の項目「小学」の冒頭で早速馬脚を露している。

  「古来、中国では多くの辞書が作られた。漢字を構成する形・音・義の三つの要素に対応して、字形から字書が、字音から韻書が、字義から類書がそれぞれ作られた。」(七三頁、太字下線は森、以下同)

 字義によって分類配列された書は、類書ではなく義書といい、『爾雅』や『釈名』などがある。『藝文類聚』や『太平御覧』などの類書は、「多くの書物の中の事項や語句を内容ごとに分類して編集した書物」(『漢辞海』一五四五頁)である。音韻学に分け入る前に「小学」で自爆している。


 「二 中古音の概要」も初歩的な誤りばかり。第一に、「韻目とは同じ韻母と四声をもつ文字のグループ」(七七頁)だというが、これは誤り。前頁では、「韻母はさらに介音・主母音・韻尾の三つに分かれる」と説明している。「東」韻を例に挙げているが、その韻目には一等韻の「東」字もあり、三等韻の「中」字も含まれている。両者は介音の有無の違いであり、井上流では「同じ韻母」とはならない。

 第二に、「三等の韻母はi介音をもち、四等の主母音はeである」(七九頁)、「上述のように三等韻にはi介音が付く」(八十頁)というが、これは中古音の初歩的知識を欠いた説明である。三等と三等韻、四等と四等韻の区別が分かっていない。

 井上氏は七八頁の図2に『韻鏡』の第一転を掲載している。その「屋」韻(東韻の入声相配韻)の歯音の一等~四等欄にそれぞれ「速・縮・叔・粛」が納められている。このうち「速(ソク)」は一等韻で、「縮・叔・粛(シュク)」は三等韻である。このように三等韻は歯音声母の下で『韻鏡』の二・三・四等に跨ることがあるのだ。

 また「三等韻にはi介音が付く」というのも誤りである。中古音では三等韻の拗介音は二種類ある。それを発見したのは、井上氏が「天才的な音韻学者」(八二頁)と呼ぶ有坂秀世の「カールグレン氏の拗音説を評す」(一九三七~一九三九年)である。ちなみに、井上氏が「中古音を概説した名論文」(八三頁)と讃える平山久雄「中古漢語の音韻」(一九六七)によれば、その推定音価は口蓋的なiと非口蓋的なIである。三等韻は中古音を理解するうえで核心的な知識である。もちろん拙著『古代の音韻と日本書紀の成立』(一九九一)の外篇第一章「隋唐字音概説」でも易しく説明している。井上氏は無知なだけでなく、中身を見ずにレッテルを貼っている。


 「三 『書紀音韻論』」では、まず上掲の拙著(一九九一)について、「この方法は大変科学的であって、上代日本語の音価についてこれほど明確に論じた研究はほかにないのではないか」(八二頁)と褒めている。評論文の末尾近くでも、「彼の上代日本語の音価推定は未曽有の業績と言うべきである」(一〇九頁)と、同様の賛辞を呈している。(これも中身を見ないレッテル貼りだ。)しかし一方では、私の「書紀α群原音依拠説」を批判し、平山久雄「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について」(一九八二)・「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について、再論」(一九八三)を支持している。α群原音依拠説が成立しなければ、私の上代日本語の音価推定は成立しない。井上氏の議論は自家撞着に陥っている。

 拙著(一九九一、一四六~一四八頁)でも述べたように、平山(一九八二)は私が提示したα・β各群の音韻的特徴について、「音声とは無関係の、いわば表記者の文字嗜好の相違という意味で、偶然の現象」と解釈した。また「α群にも『倭音説』が該当する」と言いながら、その根拠を何一つ提示しなかった。私は「平山久雄氏に答え再び日本書紀α群原音依拠説を論証する」(一九八二)で平山氏の批判に逐一回答し、α群原音依拠説の妥当性を一層明らかにした。

 私の反論に対し、平山(一九八三)は「偶然説」を繰り返し、「α群倭音依拠説」の論拠を何も提示せず、新たに「原音―倭音説」を提案した。「α群歌謡の表記者が原音に拠ると同時にその倭音をも考慮した」(十七頁)というものである。私はα・β両群の仮名表記の本質的な相違は、「漢字原音による最終的かつ統一的な点検」が加えられているか否かにあることを、創説の時から説き続けてきた(森一九七七「『日本書紀』における万葉仮名の一特質」、十七~十九頁)。平山(一九八三)の「原音―倭音説」は、α群の仮名が漢字原音に拠る吟味を経たものであることを承認しているのである。

 井上氏は、「私はこの論争について専門的な立場から論評する資格もないし、国語学者がこの論争をどう見ているのかも知らない」(八五頁)と逃げを打っている。音韻学の知識を備えているから、大山氏の依頼に応えて森説批判の報告をしたという主旨を、「はじめに」で述べていたではないか。そもそも学問に「資格」など必要ない。

 また、国語学者の見解が知りたければ、『国語学』(国語学会誌)の学界展望や拙著の書評を見ればよい。『国語学』一八八集に林史典氏による「書評:森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』」(一九九七年)が掲載されている。平山氏の「偶然説」「α群倭音説」「α群原音―倭音説」を支持して私見を批判した国語学者は皆無である。

 『国語学』二一四号(二〇〇三年)は「異文化接触と日本語」という特集を組んだ。その際に編集部が私に執筆を要請してきた。そこで、「日本書紀成立論小結―併せて万葉仮名のアクセント優先例を論ず―」を著した。拙論が巻頭論文で、その次が高山倫明「字音声調と日本語のアクセント」である。高山氏は本書の第一章・第二章でも紹介したように、私のα群原音依拠説を踏まえて、原音声調による区分論を樹立している。国語学界ではα群原音依拠説が定説となっているのだ。