聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「仏神(仏という神)」は祟るのか? : 北條勝貴「『日本書紀』と祟咎」

2011年07月29日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事では、広隆寺の弥勒菩薩その他の仏像に関する大西修也氏の新書を紹介しましたが、その広隆寺については、北條勝貴「山背嵯峨野の基層信仰と広隆寺仏教の発生--古代的心性における治水と樹木伐採--」(『日本宗教文化史研究』3巻1号、1999年5月)という好論文があります。

 木を切ることによって祟りがあったとする諸記録に注目し、治水工事によって勢力を得、広隆寺を造営した秦氏に関わる嵯峨野の地域信仰について検討した興味深い論考です。芯が曲がった悪材のアカマツをわざわざ用いて作られた宝冠弥勒像と樹木信仰の関係にも触れてます。

 そのように、北條さんは、「祟り」という形で示される、人間の乱開発に対する自然の復讐(と受け止める形で示される人の心?)の検討を行なうなど、「環境と心性」の関わりという最新の学問分野で活躍する一方、中国文献の調査に努め、日本独自とされるものが実は中国思想の影響を受けている場合が多いことを指摘するなど、独自の方法によって成果をあげて来ました。ただ、先端の研究動向に敏感であって正義感が強いためか、時に勇み足も見られます。

 その一例が、先日、氏のブログに掲載された文章です。京都清水寺の国宝・本堂の「清水の舞台」を支える柱のうち、12本にシロアリ被害が発生しているというニュースに対して書かれた「清水寺の対応を注視したい」というタイトルの記事では、そのシロアリについて「虐殺するのか。それとも被害の柱を切り取り他に移すなどの措置を取るのか。駆除したうえで虫供養でも行うのか。まさか、殺生功徳論は唱えないだろうが、もし法要が催されるなら表白文など確認したいところだ」と記されていました。

 私のこのブログの前回の記事では、虫を駆除する側の人たちが建立した久米寺の「虫塚」に触れましたが、虫などの生き物を殺さざるを得ず、供養せずには心が落ち着かない職種の人たち、あるいは、ハエやダニの大量発生に悩まされている今回の震災被災者たちが、この「虐殺するのか」という言葉を読んだらどう思うか。また、これが清水寺でなく、北條さんが管理責任を負っている勤務先大学の学生施設などのことであれば、このような書き方をしたでしょうか。

 むろん、虫や動物の側に立って考えてみることも重要ですが、上記のような書き方自体、欧米の影響を受けて自然保護が強調されるようになった21世紀初頭の日本における「環境と心性」のあり方を示す一例であって、この分野の研究対象となるように思われます。北條さんは、自然保護の立場ではあるものの、アニミズムを安易に礼賛して日本の伝統だと誇るような人たちについては厳しく批判しており、そうした点は私も同感であるだけに、「虐殺」という表現が気になり、こうした勇み足が古代史を見る目にも影響を与え、論文内容に及ばないかと案じられた次第です。
 
 前置きが長くなりましたが、その北條さんが、今回の大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』に寄せたのが、『アリーナ 2008』の論文を増訂した、

北條勝貴「『日本書紀』と祟咎--「仏神の心に祟れり」に至る言説史--」

であり、これは示唆するところの多い考察です。

 『日本書紀』によれば、物部尾輿・中臣鎌子の反対を受けた欽明天皇は蘇我稻目にだけ崇仏を許したものの、尾輿・鎌子は疫病流行を理由に勅許を得、寺を焼き、仏像を難波堀江に流してしまいます。後になって、病気になった蘇我馬子が占わせると、「父の時に祭りし仏神の心に祟れり」、つまり父の稻目が祭っていたのに祭らなくなっている「仏神」の祟りだと言われたため、馬子は勅許を得て石の仏像を祭ります。そして、馬子は廃仏派の守屋との合戦に勝利し、蘇我系の推古天皇が即位して仏教信仰が強い厩戸皇子が皇太子となった結果、推古天皇の詔のもとで厩戸皇子と馬子を中心として仏教興隆がなされるようになった、というのが『日本書紀』の筋書きです。

 北條論文は、このうち、「仏神(仏という神)」の祟りという点に着目し、中国古代以来の「祟」の事例を検討するとともに、『日本書紀』における祟り神の用例を紹介します。そして、『日本書紀』の崇仏論争記事では、神祇の祟りは明記されず、「代わりに仏罰を暗示する記述がなされている」ことに注意します。森博達『日本書紀』区分論で言えば、祟り神の用例はβ群にのみ見られ、多くは卜辞に連なる中国の史書の筆法を踏まえているのに対し、この「仏神」の祟りだけがα群である敏達紀に見えていて仏教由来であるとして、仏典の知識を持った人物による編纂時の加筆の可能性を指摘するのです。

 そして、仏教関連記述は道慈の筆とする説については、森博達・石井公成などの批判があるとし、「私も、『書紀』の場合記述者個人を明らかにすることは困難と考える」と述べます。ただ、道慈については「何らかの形で関与し、彼の持つ最新の仏教知識が活用された可能性は否定できない」とします(184頁)。唐から持ち帰った最新の仏典の貸与、唐の仏教事情の教示、中国における仏教伝来・廃仏などに関する文献の教示などを想定しているのでしょうか。

 興味深いのは、中国でも仏が祟ったという例は、六朝の仏教説話集である『冥祥記』の佚文に見られるのみだとして、それを紹介している部分です。それによれば、宋代の博打好きの男がしばしば寺の銭を盗んでいたところ、悪病となり、占う者が「祟、仏銭を盗むに由る」といったため、父が「仏とは何の神であって、息子をこのようにしたのか」と怒り、試しに自分も寺に献納されていた豪華な帯を奪って腰帯としたら、百日たたないうちに、その腰のところから同じ悪病となった、とあります。
 
 この話は、唐代の仏教百科事典とも言うべき道世『法苑珠林』に引用されています。その『法苑珠林』が引く説話には、『日本書紀』と同様、廃仏を行った者たちが報いで病気になる話も見えており、こちらも、『日本書紀』の廃仏・崇仏記事と共通する発想と用語が見えるのです。

 このため、北條論文は、敏達紀の記述は、『日本書紀』編纂時に『冥祥記』を参考にして「構築された創作史話」であるとします。仏教導入以後の日本では、災害をもたらす神の祟りは苦しみに基づくものであって、仏教への帰依によって消えるものである以上、仏が祟るというのはやはり例外なのだとするのです。

 そして、この「仏神の祟り」という話は、仏を神としてとらえる初期の心性のあらわれとされることが多いものの、「蕃神」とか「仏神」という言葉自体、中国の仏教文献に見えるものであり、ここに素朴な日本の神祇信仰を見るのは危険であることが注意されています。これは非常に重要な指摘です。

 他にも有意義な指摘がいくつかなされていますが、問題と思われた箇所もあげておきましょう。先に引いた文のうちに見えた「仏罰」という語です。北條さんと吉田一彦さんはいくつかの論文でこの語を使っていますが、この語は経典にも中国の仏教文献にも見えないばかりか、日本でも早い時期の仏教や文学の文献には出てきません。『平家物語』あたりでも「冥罰」などとあるのみです。

 仏教では、自業自得で報いを受けるとか、悪業をなすと仏教信者を守護してくれる善神たちが離れてしまうため病気その他の災難から身を守れなくなって破滅する、とするのが一般的ですし、「仏神の祟り」と「仏罰」はやはり受ける感じが違いますので、避けた方が安全でしょう。

 さらに重要なのは、表現を借りただけか、廃仏や疫病などの史実そのものが無かったのか、という点ですね。『日本書紀』の廃仏騒動をめぐる記事について、これまで以上に中国仏教文献の影響を明らかにしたのは大きな功績ですが、廃仏をめぐる争いや疫病などは実際にはまったく無かったのか、一部は有ったのか、有ったとすればどのようなものであったかについては、別に検討する必要があると思われます。

 美文の漢文で書こうとする以上、典拠を踏まえ、そちらのパターンに合わせて大げさに書くのが通例です。また、物部氏も仏教を信じていて寺を有していたのであって、守屋と馬子の争いは実際には天皇継承をめぐる勢力争いにすぎないとする安井良三氏などの説は、古瓦の研究から見ても成り立たないようですし。

 このように検討すべき課題がいくつも見えてくるのは、様々な研究のタネを含んだ論考なればこそです。北條さんの今後の研究に期待しましょう。
この記事についてブログを書く
« 豪壮な来目皇子墓も7世紀初頭... | トップ | 森博達『日本書紀の謎を解く... »

論文・研究書紹介」カテゴリの最新記事