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火災から救出された法隆寺釈迦三尊像: 大西修也『国宝第一号広隆寺の弥勒菩薩はどこから来たのか?』

2011年07月12日 | 論文・研究書紹介
 加藤論文では、四天王寺だけでなく広隆寺も創建は厩戸王子と無関係という説でした。そこで、ちょっと寄り道して、その広隆寺の弥勒像について論じるとともに、法隆寺金堂の釈迦三尊像は火災から救出されたと説く新刊書を紹介しましょう。

大西修也『国宝第一号広隆寺の弥勒菩薩はどこから来たのか?』
(静山社文庫、2011年5月、850円)

です。文庫本とはいえ、日韓両国で学んで両国の古代仏像の比較研究を大幅に進展させ、法隆寺研究でも業績をあげた大西修也氏(九州大学名誉教授)の書き下ろし作だけに、最新の研究成果を盛り込んだ内容豊かな本となってます。九大の先輩教授であった田村圓澄氏の影響が時々見られるのは気になりますが……。

 題名に見える広隆寺の弥勒菩薩以外にも、様々な日本の仏像が扱われているうえ、関連する韓国・中国の仏像についても説明されているため、古代日韓仏像入門、あるいは、古代日韓仏像比較研究史物語といった感じでしょうか。堅い概説調ではなく、それらの仏像や研究史に関する興味深い秘話もたくさん盛り込まれてます。それでこの値段はお買い得。

 広隆寺については、林南壽(イム・ナンス)氏の『廣隆寺史の研究』に基づいて述べています。つまり、蜂岡寺は、推古11年(603)に聖徳太子から賜った仏像(泣き弥勒)を納めるために、秦河勝が邸宅を改造して仏堂に造りかえた程度のものにすぎず、太子のため造営され推古31年(623)に新羅からもたらされた仏像(宝冠弥勒)を納めた秦氏の葛野秦寺は別の寺であり、蜂岡寺の地は平安京遷都の際に収公されたため、秦寺、つまり現在の広隆寺に移転する形で合併したと見るのです。太子との関係については、伝承どおり認めてます。

 古代日本では例が無いアカマツで造られている宝冠弥勒像は、現在は木目が浮き出ており、か細い指を頬に触れそうにしている繊細優美な姿によって人気を呼んでいます。しかし、明治37年(1904)に修理されてそのような姿になる前は、かなり傷んでいたものの、全体に黒漆を塗ったうえ、金箔を貼り付けてあり、荘厳具も身につけていたようです。

 しかも、生漆に木粉や糊を混ぜて練り上げた木屎漆(こくそうるし)を全身に数ミリの厚さで貼り付けて肉付けしてあったため、現在よりふっくらしており、指先は頬に付いていたらしいとか。古代に関する現在の常識は、意外と最近になって形成された場合が多いですが、これはその怖い一例ですね。

 ここまでは知られていたことですが、大西氏は、中国や韓国で新出している半跏思惟像などとも比較したうえで、韓国の半跏思惟像は「この世に下生し弥勒如来となることが約束された太子像=弥勒菩薩なのである」と述べます。そして、朝鮮三国の半跏像は、身につけているものや荘厳方法の違いによって作られた国を判定できるとし、宝冠弥勒と瓜二つとして名高い韓国の国宝83号の半跏思惟像については、新羅作の可能性が高いため、『日本書紀』の新羅仏像伝来説を裏付けることとなったとしています。一方、止利派の彫刻については、半跏像も含め、百済彫刻と密接な関係があるとし、百済彫刻に基づきつつ正面観主体のあり方を積極的に推し進めたのが止利仏師であったことを強調します。

 興味深い指摘はまだまだたくさんあるのですが、ここで止利派の代表作の一つである法隆寺金堂の釈迦三尊像に移ります。この釈迦三尊像については、若草伽藍が火災に遭っていながら、400キロ以上ある金銅像を無傷で運び出せたはずがないとする説と、いや慌てて運び出したからこそ光背の上端部が折れ曲がるような事故が起きたのだとする美術史の町田光一氏などの説があります。大西氏は後者の説を採り、1989年に行われた本尊の移動調査時の情報を考慮して、次のような状況を想定します(以下、正確な引用でなく、要略です)。

 五重塔が落雷によって燃え始めたため、僧侶たちはすぐ隣の金堂に駆けつけた。脇侍菩薩は、1本の楔(くさび)を抜けば外すことができ、蓮華の支柱は木製の台座と一緒に運び出せることが分かった。180キロある本尊と230キロ近い光背については、固定している2本の楔を抜いたうえで、本尊の背中のほぞに差し込まれ、また切り込みを入れて台座の上座の天板に埋め込まれていた光背を外すため、数人で台座に上って光背を持ち上げながらやや後ろに倒す形にして抜き取ろうとした。やっと抜けた際、その勢いで重い光背が後ろ向きに落下し、先端が内側に折れ曲がった。光背の先端の宝塔や光背周囲に取り付けられた天人たちなども飛び散ったが、光背と本尊は何とか運び出すことが出来た……。

 以上です。光背の先端は折れ曲がり、埋銅(うめがね)、すなわち、鋳造時の欠陥を銅版で埋めた部分がはじけ飛ぶほどの力を受けていました。また光背の外縁部には、空中で音楽を演奏する天人などを透かし彫りにした金具を取り付けていたと推定される26個の小さい孔が残っており、当初の光背は現在より一回り大きくて豪華なものであったことが知られています。

 釈迦三尊像については、斑鳩の他の寺や若草伽藍の他の建物に安置されていた可能性、また光背上部の損傷は別の搬入時の事故であった可能性も残されていますが、もし若草伽藍の金堂に置かれていたとしても、火災にあたって運び出すのは可能であったことが明らかになったのは大きいですね。

 なお、大西氏は、胸元に宝珠形の持物を持つ東院伽藍の救世観音像については、阿弥陀信仰が盛んになって観音が阿弥陀浄土への導き役とされるようになる前の初期観音菩薩とし、百済の金銅菩薩立像を手本にして、日本に豊富な霊木であるクスノキで作られたものと見ます。

 そして、舎利に通じる宝珠を胸元に奉持する菩薩像は、中国江南を中心として盛んになっていった兜率天往生を願う弥勒信仰とその証しとなる舎利供養の風潮を背景としているため、救世観音像は「聖徳太子の兜率往生を願ってつくられた初期の観音菩薩、すなわち舎利供養菩薩だったことになる」と説いています。

 これはきわめて重要な指摘です。そう言えば、玉虫厨子も図の中心は舎利供養でしたね。私は、前に書いたように、天寿国の基本の性格は兜率天であって、そこに『大方便仏報恩経』他に見える、亡き母のために釈尊が赴いて説法したとするトウリ天のイメージなどが重ねられているものと見ています。
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