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中国撰述説支持の撤回と以後の摸索: 曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』」(2)

2011年07月22日 | 三経義疏
 これまで見てきたように、曾根論文では以前の自説を改めて誠実な取り組みがなされ、有益な示唆がなされています。ただ、疑問に思われる点も少々有ります。

 そのうち、三経義疏が中国撰でないなら「第一の候補は(日本への渡来僧を含む)百済・高句麗僧であろう」とあるのは、「第一の候補は日本に渡来した百済・高句麗僧であろう」とする方が適切ではないでしょうか。もし百済や高句麗の学僧が自国で書いたのであれば、その書物が百済や高句麗で全く知られずにいるのは不自然だからです。曾根さんは、おそらく渡来僧に重点を置きつつ上のように書いたのでしょうが。

 鎌倉時代に法隆寺で開板された三経義疏のうち、『法華義疏』は現存する御物本に基づく模刻であるほか、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』も、『法華義疏』と共通する古風な異体字などから見て、『法華義疏』御物本にきわめて似た体裁の古写本の模刻であったことは、花山信勝が早くに詳述しているところです。

 つまり、三経義疏は、学風だけでなく、体裁も似ていたことになります。だからこそセットにされたのですね。曾根さん自身も、注12では、性格の異なるものを組み合わせることは考えにくく、特に外国僧と日本僧の注釈を組み合わせることは想定しにくい、と述べている通りです。

 今日まで奇跡的に痛みが少ない状態で伝えられてきた『法華義疏』御物本は、紙が貴重な7世紀前半あたりに、隋の上質の紙を用いて書かれているため、他の二疏も同様であったと推測されます。

 しかし、中国の注釈を参照しつつそうした高級紙を使って『勝鬘経義疏』1巻、『法華義疏』4巻、『維摩経義疏』3巻というそれなりの質と量を有する3部の注釈を書けるのは、かなりのエリートに限られるでしょう。そのようなエリートである百済僧や高句麗僧が自国で人気経典の注釈を3部も書いていたとしたら、そのことがそれぞれの国で全く知られずにいるとは考えにくい。

 しかも、百済が滅亡した時期には、貴族や僧侶を含む多くの百済人が日本に渡ってきていますし、百済の時ほどではないものの、遅れて滅亡した高句麗からも僧を含めたかなり数の人々が日本に渡って来ています。『日本霊異記』に見えるように、高句麗に留学していた際に高句麗滅亡時の戦乱に巻き込まれ、必死で逃れて中国に渡り、長年の苦労の末、ようやく日本に戻ってきた日本僧もいました。

 実際、法隆寺が蔵する甲午年銘(持統8年、694年)の造像記板には、鵤(斑鳩)大寺の徳聡、片岡王寺の令弁、飛鳥寺の弁聡という、百済王の家系である3人の僧が父母の恩のために観音像を造ったと記されています。7世紀末には、再建が進みつつあった法隆寺および太子と関係深い寺々に百済系の僧、それも貴族の血を引く僧たちが確実にいたのです。これは、百済の首都となった扶余の寺院のほとんどが王家や官に関わる寺であったことが示すように、百済仏教が中国南朝を手本とした貴族仏教であったことと関係しているでしょう。

 そうした朝鮮からの渡来僧、朝鮮諸国に留学した日本僧、朝鮮経由で入唐した日本僧たちが仏教の指導役として法隆寺や飛鳥寺を含めた各寺で活躍しているのに、また仏教受容期から奈良朝前半あたりまでは、朝鮮諸国や唐への留学僧の多くが朝鮮渡来系氏族出身であったのに、百済や高句麗の学僧が自国で書いた3部の注釈が上宮王撰とされるでしょうか。

 高句麗や百済の仏教は新羅にも影響を与えており、高句麗や百済の仏教界で話題になった書物であれば、新羅にも情報が伝わるでしょう。新羅は後にはこの二国を併合して半島を統一しますし。

 天平宝字5年(761)の『東院資財帳』では、『法華義疏』は律師行信が捜し求めて奉納したとあるため、8世紀半ばになって行信がこれら3部の注釈を上宮王撰だと言い立てて宣伝したのだとする説もあります。しかし、百済僧か高句麗僧の作、ないしその可能性のある著者不明の注釈を上宮王撰だとして宣伝していることを、日本と長く対立してきて微妙な関係にあった統一新羅に知られたら、非常に恥ずかしいことにならないでしょうか。唐に知られた場合も同様です。

 三経義疏を秘蔵して外に出さないなら、新羅にも唐にも知られずにすむでしょうが、三経義疏は天平19年(742)から天平勝宝8年(756)頃にかけて盛んに書写されていることが記録から知られます。また、その時期ないし少し後の時期には智光(709~)などの学僧たちが注釈書でしばしば引用しています。さらに、宝亀8年(777年。松本信道説による)には、得清らが『勝鬘経義疏』と『法華義疏』を唐にもちこんで鑑真ゆかりの寺に献呈し、後に唐僧の明空が『勝鬘経義疏』の注釈を著すにまで至ったことは有名です。

 その頃の唐の有名な寺々には、百済と高句麗を併合した統一新羅から、日本の留学僧とは桁違いの数の僧たちがやって来ていました。「三経義疏は、実は百済か高句麗の作らしい」などいう噂が奈良時代の仏教界でつぶやかれていたとしたら、『勝鬘経義疏』と『法華義疏』を唐に持っていって南嶽慧思の後身である上宮王の作として誇る、などという怖いことは出来なかったでしょう。

 次に、仏教受容期の日本人に高度な教理が理解できたか、という点については、今でも欧米で広く読まれている英文著作を著したのは、新渡戸稲造、岡倉天心、鈴木大拙、忽滑谷快天その他、開国して数十年しかたたない明治期の知識人たちであることも考えるべきでしょう。

 彼らが有名な英文著作を書いたのは、海外渡航後ですが、横浜で育った岡倉天心などは、幼い頃からアメリカ人宣教師に英語を学び、帝国大学ではフェノロサに習い、フェノロサの奈良古寺調査に当たっては助手となって通訳を勤めています。

 飛鳥は渡来系氏族が活躍した地であり、飛鳥仏教は、日本風な色づけも少々なされているものの、基本的には朝鮮仏教です。斑鳩寺を建てた厩戸皇子は、百済と結びついていた仏教推進者である蘇我氏系のエリートですので、天心のような環境で育ったと考えるべきでしょう。庶民や地方の中小氏族の子弟と同一視することはできません。

 厩戸皇子以外の日本人が関与したとしても、育ちは厩戸皇子と同じようなものでしょう。それに、三経義疏は、種本を要略した部分以外で自説を強調している箇所は、どの疏も変格漢文が目立ちます。百済・高句麗僧であれ日本人であれ、中国に長いこと留学していた人なら、あのような漢文にはならないはずですす。

 というより、朝鮮渡来僧が書いたのか、日本人が書いたのか、という二者択一はそもそも成り立たないのですね。ここで振り返るべきなのは、古代において帝王や聖人の作などという場合、自分ですべてやったという意味ではないように、「上宮王撰」の場合も太子の保護のもとで朝鮮系外国僧(たち)が書いたという意味だ、それが平安朝以後の太子信仰の中で太子一人の作とされるようになったのだ、講経にしても外国僧による講経を太子が主催したという程度なら「むしろ大いにありうる」、と説く井上光貞説でしょう。

 検討すべきなのは、その外国僧は一人だったか複数だったか、その僧(たち)の出身国や学系はどれなのか、厩戸皇子ないし他の日本人の関与があったのか、あったとしたらどの程度のものか、コメントを少し付した程度か、種本の講義と抄出をしてもらいながら質疑を重ねつつ書かせた(書いた)りしたのか、といった問題ですね。