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古訳経典によって神格化された山背大兄王:八重樫直比古「上宮王家滅亡の物語と『六度集経』」

2011年07月08日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』の個別論文のうち、加藤論文に続いて紹介するのは、古代日本思想のいくつかの問題に取り組み、地道にコツコツと突き詰めてきた八重樫直比古さんの論文です。これは、『アリーナ 2008』論文の増補版です。

 現在、岡山の大学で教えている八重樫さんは、東北で育ち、東北大大学院を出たこともあって、今回の震災に際して古代思想の研究者として何かできないかと考え、『日本三代実録』巻16の清和天皇貞観11年(869)5月26日条、すなわち、陸奥国の大地震・大津波の記事の訳注を作って知人に配られました。「原野道路、すべて滄溟(うなばら)と為る。船に乗るに遑[いとま]あらず、山に登るに及び難し。溺死する者千許[ばか]り」とある悲惨な描写です。私も多数コピーして、あちこちで配布させてもらいました。

 この記事の現代語訳が何年も前から東北地方で広く読まれていたら、被害が少しは減っていたのではないか、と今思っても遅いのですが、この訳注は、研究者は社会にどう働きかけていくべきかという点も含め、今後、いろいろな面で役立つことでしょう。いかにも八重樫さんらしい、震災への対し方と思われたことでした。

 さて、その八重樫さんの論文は、聖徳太子が『日本書紀』において神格化されている以上、「伝説化、神格化は、太子のみならずその子の山背大兄王にも及んでいる」はずであって、「『書紀』における太子の伝説化や神格化をめぐる問題を考える場合には、その子を含める必要がある」というところから出発します。

 そこで注目したのが、山背大兄王が妻子とともに自害する話です。入鹿が向けた軍勢に追われ、山に逃れた山背大兄は、自分は「十年、不役百姓(十年間、民衆を使役すまい)」と思っており、戦えば必ず勝つと分かっているが、我が一身のために万民を煩わせ、傷つけることは出来ないと述べ、我が身を入鹿に与えようと言って、寺に戻って自害します。なぜ「十年」なのかに関する説明はありません。

 八重樫さんは、これに近い話と表現が、中国の初期の訳経の一つである康僧会訳『六度集経』に複数見えることを指摘します。『六度集経』は、釈迦の前生譚を「六度」、すなわち布施など六波羅蜜のそれぞれの徳目に割り振り、釈迦の前身がいかに立派な行為に努めたかを興味深い話で語ったものです。

 『六度集経』には隣国が軍勢を向けて来た際、王が、もし戦ったら民衆の命を害することになるため、「私一人の命のために、民衆の命を損なおうとしている」群臣に従わず、国を隣国の王に委ねようと言って太子とともに山野に身を隠したとか、海神が交易船を海上で動かなくし、生けにえを捧げるよう要求した際、貧しい男が「自分一人のために、多くの命を失ってはならない」と考えて船から降りた、などの話がいくつも見られます。

 また、一回目の包囲の時は、山背大兄の奴の三成が果敢に戦い、敵軍を指揮していた将を射殺したため、「一人当千とは、三成のことを言うのであろうか」と人々が語り合ったとされていますが、『六度集経』には、「一人当千」や似た「力当千人」などの表現も見えているのです。

 八重樫さんは、『六度集経』を上宮王家滅亡物語の典拠と断定することは控えるが、こうした釈尊の本生譚が下敷きになっている可能性はきわめて高いとします。ただ、7世紀の玄奘三蔵による直訳調の訳を新訳、5世紀の鳩摩羅什の流麗な訳などを旧訳と呼ぶのに対し、それ以前の時代の生硬で読みづらい訳を古訳と称しますが、3世紀に活躍した康僧会の訳である『六度集経』は、まさに古訳の典型の一つです。

 720年に完成した『書紀』の仏教公伝の部分が、703年に長安で訳されたばかりである『金光明最勝王経』の表現を用いていることは有名ですが、『書紀』編纂の最終断簡において、最新訳の表現を用いて潤色した人やその周辺が、よりによって古訳の本生譚などを使うか、というのが八重樫さんの疑問です。

 つまり、『書紀』の編纂に当たっては、古訳を用いた物語を含む様々な資料が前から集められていたのであって、この上宮王家滅亡物語については「『書紀』編纂の最終段階において、編纂や執筆に当たった者が作ったという推定は、おそらく成り立たないであろう」と推定するのです。

 山背大兄の物語は、多くの人々を救うために自分の命を投げ出す最高の布施の物語ですが、これによって「蘇我氏を悪玉、山背大兄は善玉と決めつける記事が出来上がった」のであって、そうした蘇我氏が討滅されるのは当然という状況に仕立てるというのが『書紀』編者の構想だったのではないかと、八重樫さんは述べます。

 その際、もとの資料には「十年」に関する説明が説かれていたのに、編者がその部分を不要と見て削除していながら「十年」という表現を残してしまった結果、「十年」の意味が不明となったのではないか、というのです。これは、興味深い推測ですね。

 『書紀』では、いろいろな仏典の表現が用いられていることは有名ですが、このように、まだまだ知られていない仏典利用の例がたくさんあります。私自身、守屋合戦その他の箇所で、いくつも見つけており、いずれ書く予定です。

 なお、八重樫論文の末尾では、山背大兄を討つため自ら出陣しようとする入鹿に対して、古人大兄皇子が「鼠は、穴に伏せて生き、穴を失いて死す」という格言らしきものを引いていさめたという部分について、似た表現が古訳中に見えるとし、氏の前稿に触れています。その論文も拝読していますが、そちらはやや無理に思われました。ただ、そうした試行錯誤を積み重ねていくことは、『書紀』の編纂の実状を明らかにするうえで重要でしょう。

【追記:2011年7月12日】
一つ書き落としてました。八重樫論文では、『日本書紀』は古訳経典を用いて作られた先行の物語を資料としていたと指摘するだけでなく、「仏教公伝の記事の場合とは異なって、事件の山場については新訳経典などによる潤色が施されなかった」点を問題にしています。

【追記:2011年7月16日】
 八重樫さんは、「我が身一人のために多くの人を苦しませてはならない」という理由で抵抗せず殺される、という図式に着目したのですが、これについては、境部臣摩理勢にも当てはまりますね。舒明即位前紀では、山背大兄王が摩理勢に対して「汝一人に因りて、天下乱るべし」と語ると、摩理勢は戦うことはせず、蝦夷の軍勢が来るのを門口で坐って待ち、絞殺されたとありますので。
 もう一つ書いておきます。「十年の間、民衆を使役すまいと思っている」というのは、裏返せば、自分の代であれ父の代であれ、上宮王家が寺院の建立や道路建設や荘園開発などで相当な開発事業をしたことが背景にあるのではないでしょうか。皇極天皇元年是歳条に、蝦夷と入鹿の寿陵建設のために上宮の乳部の民を悉[ことごと]く集めて使役したことに上宮大娘姫王が怒ったというのは、上宮王家が事業に使うべき労力をとられたということもあるんでしょう。「悉く」というのは文飾でしょうけど。
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書紀編者の使用した資料 (YAGURUMA)
2011-07-08 18:51:11
 旧唐書の日本国の条に、
 「開元初、又遣使来朝、因請儒士授経、詔四門助教趙玄黙、就鴻臚寺教之。乃遣玄黙、闊幅布以為束修之禮題云。
  白亀元年、調布人亦其偽此題所得錫賚盡市文籍泛海、而還」
 とあり、書紀の文飾のため長安市中の文籍を買い尽くした事が記録されています。しかし、古訳の『六度集経』を仏教初伝が欽明期の大和政権が持っていたとは思えず、九州王朝の書籍を利用したのではと考えられ興味のある論考です。
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そんなことは書いてありません (石井公成)
2011-07-09 17:58:06
そんなことは書かれてません……。
 そもそも句読点がデタラメですし、「書紀の文飾のため」などとはどこにもありませんし、「長安市中の文籍を買い尽くした」ら大変です(10月には学会発表のため西安に行くので、やってみたい……)。この漢文は、唐朝からの下賜品はすべて本を買う費用にあててしまい、(そうした本を大事にかかえて)船で帰ったという意味です。
 また、『六度集経』のような釈迦の本生譚は人気経典であったうえ、これに見える有名な説話を抄出したものが梁の『経律異相』その他、仏教類書と言われる大小の「仏典エッセンス集」に収録され、流通してました。学生が、日本文学全集を読まずに、『日本文学名文集』を読むようなものです。『日本書紀』にしても、中国古典の原典は限られたものしか使わず、類書(中国流の用例による百科事典)に見える表現を切り貼りしてすませていることは有名です。
 八重樫さんの論文に対して妙なことを書かれては、八重樫さんに申し訳ないため、訂正しましたが、こうなることが分かっていて面倒だから、「コメントには応答しませんよ」と書いたんです。いい加減にしてくださいね。

【前のコメントは言葉がきつすぎたので改めました。申し訳ありません】
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拝見しました。 (八重樫直比古)
2011-07-16 17:04:50
ご指摘に感謝します。山背大兄の境部摩理勢説得のことばは,ご指摘を受けるまでまったく考えたこともありませんでした。同一人物が別の条で同じ趣旨のことを言っている。これはまことに重大なことです。その意味を考えてみます。
三代実録の訳注のご活用に感謝申しあげます。
それにしても今夏はまったく暑いですね。石井さんにおかれましてもご自愛ください。
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コメント、有り難うございます (石井公成)
2011-07-16 21:24:49
 八重樫さんと電話で話していると、新たに気づくことが多く、ご論文ともども感謝しています。
 摩理勢の失望と討伐の前後は、変則漢文が目立ちますね。
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