聖徳太子研究の最前線

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豪壮な来目皇子墓も7世紀初頭の岩屋山式: 陵墓調査室「久米皇子 埴生崗上の墳丘外形調査報告」

2011年07月26日 | 論文・研究書紹介
 厩戸皇子の墓所とされる磯長廟に関する宮内庁書陵部陵墓課陵墓調査室の調査報告については、前に紹介しました。今回取り上げるのは、その磯長廟報告の次に掲載されている、

陵墓調査室「来目皇子 埴生崗上の墳丘外形調査報告」
(『書陵部紀要』第60号、2009年3月)

奥田尚「来目皇子 埴生崗上墓外堤南面にみられた遺構について」(同)

です(続けて紹介しておけば良かったですね)。

 厩戸皇子の弟であって推古10年(602)に新羅征討の大将軍に任じられ、翌年春2月に筑紫で亡くなった来目皇子の墓所として、宮内庁が治定している大阪羽曳野市の埴生崗上墓は、羽曳野丘陵の斜面に位置し、飛鳥と難波を結ぶ竹ノ内街道を見下ろす位置にあります。この付近は、天皇や皇族の陵墓とされるものが多く、「中の太子」と呼ばれ聖徳太子信仰の寺として親しまれてきた野中寺もすぐ側です。

 江戸時代には、近隣の金剛寺住職であった覚峰阿闍梨が荒れて開口していたこの墓に入っており、記録をとどめています。それによれば、石室は美しい切石で出来ており、玄室と羨道の長さはともに15尺とされています。このため、山本彰「来目皇子墓:埴生野塚穴山古墳」(水野正好他『「天皇陵」総覧』、新人物往来社、1994年)では、羨道が短い点は、来目皇子の没年である7世紀初頭頃の古墳石室より後の形式としつつ、この付近には他に候補となりうる大型古墳は無いため、来目皇子墓の可能性が高いとしていました。

 実際、2006年1月に、宮内庁の陵墓指定区域から10mほど南の民有地に対して羽曳野市教育委員会が実施した調査では、西に50mも伸びる人為的な外堤が発見されたため、墓域の周囲を一辺100mほどの外堤が四角く囲んでいたと推測されました。墳丘自体は、用明天皇陵とされる陵よりやや小さいものの、約50m四方もある墳丘の大きさと、その墳丘を方形の濠と外堤がめぐっている点は、馬子の墓とされている石舞台ときわめて似ていることが話題になりました。

 この調査を受けてのことでしょうが、宮内庁陵墓調査室は平成20年2月に調査を行っており、今回の報告となりました。閉じられている石室の内部には入っていません。ただ、明治8年に来目皇子墓と治定されたこの墳丘に対して明治23年になって整備工事が行われた際、職員の調査報告書が作られていたそうで、その『石室略図』が紹介されています。

 現存の『石室略図』は原本でなく、大正12年の謄写本だそうですが、松が生い茂る当時の古墳外側の様子が絵で描かれ、また100分の1の実測図によって内部の構造が示されており、その写真が掲載されています。

 その『石室略記』によれば、玄室の長さは18尺、羨道の長さは25尺と記されています。これが正しければ、太子の墓所とされる磯長廟と同様、7世紀前半のものとされる岩屋山式の石室ということになるものの、奧壁の上段が二石となるらしいなどの特異な点も見られる由。

 今回の調査では、墳丘上の一部の枝を払って調査しており、その結果、一辺が約53から54m、最大高が約10m、テラス面を備えた3段築成の方墳であることが判明しています。凝灰岩の貼石も発見されており、そうした貼石を用いた遺構が存在していた可能性もあるとか。まさに天皇陵に準ずる豪壮なものだったようです。

 羽曳野市教委の調査では、墳の周囲に方形の堤がめぐらされていたと推測されていましたが、実際に造成された堤は南側だけであって、東・西・北の堤と見えたのは、自然の地形を巧みに生かしたもののようです。また、興味深いことに、南側の外堤には方墳と堤の間に貯まった水を排水するため、川原石を用いたトンネル型の排水溝もあった由。

 橿原考古学研究所の奥田氏の報告は、昭和58年に墓の南側で造成工事が行われていた際の簡単な個人的調査に基づくものであり、当時の写真も掲載されています。奥田氏によれば、墓の背後の山から流れてくる水を逃すための同様の排水施設は、玉手山9号墳、マルコ山古墳、キトラ古墳その他に見られるそうです。

 ということで、来目皇子を「河内の埴生山の岡の上に葬る」と記した『日本書紀』の記述は信頼でき、この墓は宮内庁の陵墓治定が正しかった極めて稀な例(正しいのは数パーセント?)、と考古学界では認められています。明治の治定の頃の状況については、北康宏「陵墓治定信憑性の判断基準」(『人文学』181、2007年11月)で読むことができます。

 『日本書紀』のこの部分には、推古天皇は殯のために土師連猪手を周芳(周防)の国の娑婆に派遣したとあり、その猪手の子孫を娑婆連という、と記されているため、葬儀と造墓の技術集団であった土師氏が提出した文書に基づいて書かれているのでしょう。中世の聖徳太子伝の中には、来目皇子が海を渡って戦い、新羅を降伏させて筑紫に凱旋したなどとする話が複数の系統に見られますが、それらは、神々の加護で新羅の大将を倒したとか、「日本国ハ神国」なので負けても仕方ないと新羅王が語ったとするなど、中世ならでは神国思想に基づいて増補されたものであることは、松本真輔さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(勉誠出版、2007年)が明らかにしています。

 その来目皇子が創建したと伝えられる久米寺は、畝傍山の南、橿原神宮駅の近くに位置しています。久米寺は、久米仙人の伝説で有名であって久米仙人の創建とする伝承もあるほか、久米部の氏寺とする説もあります。久米部であれば軍事関連の氏族であることが着目されますが、古い文献が残っておらず、詳細は不明です。創建時期も明確でなく、出土瓦から見て7世紀後半とする研究者もいます。

 四天王寺は聖徳太子信仰を鼓吹しつつ天台宗との関係を深めていったのに対し、久米寺は、夢告を得た空海がこの寺で『大日経』にめぐりあったという伝承が示すように、真言宗と結びつくに至ってており、中世には多くの書物を蔵する学問寺として知られるようになります。

 近世以後では弘法大師信仰の寺、練り供養の寺として知られていますが、先日、訪れてみたところ、近年は来目皇子の「目」や久米仙人の逸話などから、目の病気や中風その他の病気に功験あらたかということで参拝する人が多いようです。あじさいの寺としても有名ですね。

 それと関係があるのかどうかわかりませんが、なかなか風情のあるこの寺の入り口近くには、奈良県の毒物劇物取扱者協会が駆除された虫を供養するために建立した立派な「虫塚」が建っていました。関係者たちによる法要も毎年、催されているとか。新羅征討の大将軍に任じられた皇子の創建という伝承を有する由緒ある寺が、時代とともに移り変わってきた一例ですね。