聖徳太子研究の最前線

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四天王寺は官人的体質の氏族が創建した准官寺的寺院:加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」(2)

2011年07月05日 | 論文・研究書紹介
 四天王寺創建は厩戸とは関係が全くないと言うためには、四天王寺は厩戸の創建でもなく、厩戸の為の創建でもないとする証拠、そして、新羅王が送った仏像・仏具がその少し前に亡くなった厩戸の追善のためでないとする証拠が必要と思われます。

 四天王寺の創建が通説より後である点がその第一の根拠ということなのでしょうが、加藤論文が依拠した佐藤説は通説にはなっておらず、このブログで紹介した井内潔氏の論文「瓦から見た法隆寺や四天王寺の創建年代」も、佐藤説は判断材料不足と見ており、620年前後に造営が開始されたいう推定案を提示しています。

 また、加藤氏は大山流の聖徳太子非実在論者ではなく、「推古十五年の前後の約一◯年間は、厩戸王子が王族を代表して蘇我馬子と共同執政を行っていた」と見る立場なのですから、百済に負けじとして仏教外交を展開しようとしていた新羅王が、次の大王となる可能性が高かった仏教熱心な厩戸王子の死を悼むのは、不自然とは思われません。

 そもそも、四天王寺は、造寺造像技術を独占していた蘇我氏の飛鳥寺・豊浦寺の瓦を受け継いだ厩戸の若草伽藍で使っていた瓦当笵そのものを用いて建立され始めたことは、考古学が解明した事実であって異説はありません。

 この状況で、厩戸との関係を否定するとすれば、考えられる事態は、加藤論文では引かれていませんが、西田孝司「四天王寺の創健者をめぐる問題」(横田健一先生古稀記念『文化史論叢』上、1987年)が早くに述べていた蘇我氏創建説しかないでしょう。実際、加藤氏が重視した佐藤論文でも「四天王寺の造営に蘇我本宗家が介在した可能性」(22頁)が指摘されています。

 もし、蘇我氏との関係で難波吉士氏が創建したとする説が成り立つなら、瓦当笵の問題も、若草伽藍の方に回してやっていたものを一段落したところで蘇我氏が四天王寺造営に振り向けたのであって、蘇我本宗家が滅んだ後になってから、四天王寺側が厩戸との関係を強調し始めたのだ、と見ることも可能でしょう。

 四天王寺は物部氏の領地を寺領として有していたのですから、守屋合戦に勝利した蘇我本宗家と無関係でないことは間違いありません。ただ、厩戸も馬子側であって、法隆寺も物部氏の旧領地を有していたのですから、こちらも四天王寺と無関係とは言えません。

 また、加藤氏が厩戸と馬子の「共同執政」説をとられる以上、まさに厩戸と馬子が共同で対外交渉担当の難波吉士氏に命じて対外交渉の地である難波に寺院を創建させて維持を担当させ、技術や寺領その他の面で支援したと見ることも出来るでしょう。つまり、『日本書紀』の守屋合戦記事で説かれたような劇的な誓願物語は後代に作成されたにせよ、対外関係を考慮した「準官寺的寺院」という性格は、創建当初からのものであったと見ることも可能なのです。

 これらは推測ですが、そのような背景を考えないと、難波吉士氏という一氏族が斑鳩寺に続く早い時期に、斑鳩寺の瓦当笵を用いて寺院を建立するという状況が考えにくくなります。四天王寺が四天王信仰による護国の寺として性格を変えていったのは、ご指摘のように事実でしょうが、四天王寺側が権威付けをはかるために「我が寺は推古/舒明天皇の奉為の四天王の護国寺である」といった主張をした記録はありません。

 また、新羅王の仏像仏具贈呈について言えば、『日本書紀』推古29年2月の厩戸皇子の死の記事に続く推古31年(岩崎本では30年)の記述では、秋7月に新羅王が送ってきた仏像を広隆寺に、種々の仏具を四天王寺に納めたと記している以上、その段階で両寺とも、特に四天王寺は金堂くらいは出来ていたように見えてしまいます。

 あるいは金堂などは工事中であったため、その完成まで仏像や仏具はどこか別の建物に安置してあったということになるのか。その場合であっても、木材の伐採・乾燥や整地作業などを考えると、さらにその数年前に造寺の発願がなされ、造営の準備が始まっていたことになるでしょう。となれば、それは厩戸の生前の時期ということになってしまいます。瓦を焼くのは、金堂造営がある程度進んでからでしょうが、窯の作成にはやはりそれなりの準備期間が必要でしょう。

 ここで、思い出していただきたいのが、前回の倉本論文紹介の記事で触れたように、造寺造像のための誓願は、亡くなった人の追善のためばかりとは限らず、その時代の皇帝の為、あるいは皇帝とそれに続く権力者たちの為という点をまず掲げるパターンが多いということです。倉本論文は、「無量寿」や「阿弥陀」という名が記されるものを検討していましたが、釈迦像その他も含めれば造像銘はさらに多様であって、「皇帝・皇太子・有力な臣下……の為」や「東宮皇太子の為」といった造像銘も北朝期には見られます。年代に関して議論のあるものとはいえ、戊子年(推古36年?)に「嗽加大臣の為」に造られたとする銘が刻まれているこぶりの釈迦三尊像(法隆寺蔵)は、そうした伝統が日本にも伝わっていたことを示す良い例ですね。

 加藤論文では引用されていませんが、三舟隆之「四天王寺の創立とその後」(『続日本紀研究』334号、2001年10月)では、上宮王家が創建したと考えるとしたうえで、「四天王信仰の目的は王権の護持にある」とし、四天王寺の発願理由もそこにあると説いています。つまり、守屋合戦時の厩戸の劇的な誓願に基づく建立という伝承や、厩戸の追善のためとする田村説以外でも、瓦当笵でつながっていた上宮王家と四天王寺の関係を想定することは不可能ではないのです。

 また、拙論でも書いておいたように、上代の誓願は臨終儀礼のような形でなされることも多く、臨終時に、助からないと知りつつ近しい者たちが延命ないし蘇生を願い、無理なら浄土往生をと願って造寺や造像の誓願を立てることがあります。そうした場合は、奇跡的に蘇生するのでない限り、有力者の奉為を願ってなされた造寺造像が完成するのは、死後かなりたってからとなり、完成法要は追善のための法要ということになってしまいます。それに、「何年、(~の為に)~寺を造る」という記述は、発願の時か、造営開始の儀式の年か、最初に金堂くらい出来た時か、伽藍の主要な建物が出来た時なのか、という問題もありますね。

 以上見てきたように、加藤氏の今回の論文のうち、四天王寺は難波吉士の氏寺であって厩戸の追善のために創建されたとする田村説を否定した点、また四天王寺は対外交渉を担当する渡来系氏族であって官人的体質が濃かった難波吉士氏が中心となって創建し維持した準官寺的寺院という点を指摘し、難波吉士氏や同祖の阿倍倉梯麻呂と四天王寺の関係を明らかにした点は、氏族研究を進展させてきた加藤氏ならではの功績であり、高く評価できます。

 ただ、厩戸との関係の否定という点は論証が弱いように思われますので、今後は、四天王寺は難波吉士氏が中心となって建立し官寺的な性格を強めていった寺院であったとしても、それは推古天皇や厩戸や馬子大臣の奉為(おんため)を願っての造寺、また馬子大臣か厩戸のいずれか、あるいはその両方の意向と支援を受けて創建されたとしても矛盾はない、といった観点も考慮して研究を進めていく必要があるのではないでしょうか。

【追記:2011年7月7日】
今回の記事では、加藤氏が四天王寺同様、厩戸とは本来関係が無かったと見る広隆寺については触れませんでしたが、こちらも移築をめぐる論争があるほか、前身とされる北野廃寺には豊浦寺の瓦と同笵の瓦が用いられているなど状況が似ており、厩戸との関係をまったく否定するのは難しいと思われます。後代の劇的な伝承を疑うのは当然としても、関係そのものを否定するには、それなりの根拠が必要でしょう。

四天王寺は官人的体質の氏族が創建した准官寺的寺院:加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」(1)

2011年07月05日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所収の諸論文のうち、このブログで最初に取り上げるのは、古代の氏族などに関する研究書を多く著しておられ、幅広い史料調査に基づく堅実な学風で知られる加藤氏の論考、

加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」

です。

 加藤氏は1989年の論文では、14歳であった聖徳太子の誓願に基づくとする『日本書紀』の守屋合戦記事は、四天王寺側が「我が寺は飛鳥寺と同等、ないしそれ以上の由緒を持つのだ」と主張するために、蘇我氏と物部氏の政治抗争による武力衝突であった守屋合戦に宗教的意義を付したもの、と論じていました。今回は、その論文以後の考古学的研究の進展の紹介から始めています。

 以前は、四天王寺の創建瓦と若草伽藍の創建瓦は同時期のものとされていましたが、若草伽藍の創建瓦は、実際には飛鳥寺の瓦を作るために用いられた瓦当笵(作成用の木型)が、その造営が一段落した頃に豊浦寺に移され、さらに若草伽藍の工房にもたらされたものでした。ついで、その若草伽藍の工房で二次的な軒丸瓦の瓦当笵が作成され、それが繰り返し用いられて笵崩れが生じた段階で、大阪府枚方の楠葉・平野山窯に運ばれ、そこで四天王寺の瓦を焼いたことが明らかになったのです。

 つまり、四天王寺は若草伽藍(斑鳩寺)より創建が遅かったのですが、加藤氏は、その創建時期に関して考古学では二つの対立する説があることを紹介します。まず、佐藤隆「四天王寺の創建年代」(『大阪の歴史と文化財』3号、1999年7月)は、楠葉・平野山窯では時代がやや遅れる須恵器が四天王寺創建瓦とともに出土していることから見て、四天王寺金堂は7世紀第II四半世紀の造営としています。仮に630年あたりに建立を開始したとすれば、舒明天皇の代に造営が始まったことになります。

 一方、網伸也「古代寺院の創建と瓦陶兼業窯」(『あまのともしび』2000年)は、楠葉・平野山窯は若草伽藍の瓦当笵を用いて四天王寺の瓦を焼くことを主な目的として開かれ、その仕事が一段落してから須恵器も並行して焼くようになったのであろうから、四天王寺金堂は7世紀第I四半世紀に造営を始めたと見て良いとしています。
 
 四天王寺は最初は玉造に建立され、後に現在の地に移ったとする伝承を平安期の成立として否定し、四天王寺創建の時期を下げて考える加藤氏は、佐藤説に従うべきだとしますが、その際、注目するのが、『書紀』推古31年(623)の記事です。難波を中心とし、朝鮮との対外交渉を行うために組織され、難波に対外用施設を複数有していた難波吉士氏に属する吉士磐金と吉士倉下が、新羅使をともなってこの年の7月に帰国した際、新羅使が献上した仏像は秦寺に、舎利・金塔・灌頂幡は四天王寺に納められ、その同じ船で大唐学問僧の恵光なども新羅経由で帰国したとある有名な記事ですね。

 『大同縁起』と呼ばれる四天王寺資財帳の逸文では、四天王寺の金堂には、その恵光が唐よりもたらした阿弥陀三尊が安置されていたと記されています。福山敏男は、創建時の四天王寺はその仏を本尊としていたと推測しており、加藤氏はそれに賛同します。さらに、加藤氏は、四天王寺は聖徳太子が建立した寺でなく、厩戸の追善のために建てられた難波吉士氏の寺だったとする田村圓澄説を紹介し、そのように「考えることも可能である」と評価します(加藤氏自身は田村説や大山説の「厩戸王」でなく、「厩戸王子」という呼称を用いていますので、ここではそれに従います)。

 ただ、加藤氏はその後で、新羅と厩戸王子との関係を強調して四天王寺は新羅系の難波吉士氏の氏寺だとする田村説を訂正し、難波吉士氏は新羅でなく加耶系の渡来人であることを指摘します。さらに氏は、『広隆寺縁起』によれば、推古30年に「聖徳太子の奉為」に秦河勝が建立したとされる広隆寺(秦寺)も、四天王寺と同じ頃に同じような経緯で創建されたとされているものの、そうした両寺に仏像や仏具が納められたのは、日本との関係改善を狙う新羅王が政治的な意図で贈呈したものが「厩戸王子の追善」という名目で納入されたにすぎず、「両寺の創建は、本質的には厩戸王子と関わりがないと解すべきである」と説いています。

 加藤氏は、四天王寺が位置する難波の郡領の地位を難波吉士系が独占していたこと、四天王寺で飛鳥瓦が多量に出土したのは塔・金堂の周辺と中門であって、回廊や講堂の建造は7世紀後半とされていることから、四天王寺は難波吉士氏の寺であって、「大化前代から渉外用の施設とタイアップする形で、宗教施設として准官寺的な寺院」であったものが、乙巳の変によって寺の性格が変わったと見ます。

 孝徳天皇の4年(648)に大臣であった阿倍倉梯麻呂が四天王像などを安置して大がかりな法会を催しているうえ、斉明天皇の崩後にさらに四天王像が安置され、伽藍が整備されている点から見て、対外関係が厳しかった7世紀半ばあたりから四天王信仰が高まり、難波吉士氏の寺でも「四天王寺」という名称と性格が形成されたのであって、大化期以降は「官寺的要素の強い寺院と位置づけることができる」と説くのです。

 そして、新羅との関係が変わって難波吉士氏の活動が不要になるにつれ、同祖とされて難波吉士氏と関係のあった阿倍倉梯麻呂が四天王寺の外護役となっていったのであって、阿倍氏自体の氏寺も四天王寺の近辺にあったことなどを明らかにしていきます。

 このように、四天王寺の初期の姿とそれを支えた勢力がこれまで以上に明らかにされており、すぐれた研究として評価できます。ただ、四天王寺は「本質的には厩戸王子と関わりがない」とする点については、やや論証が弱いのではないでしょうか。