聖徳太子研究の最前線

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過去の共生思想運動において国家主義に利用された「憲法十七条」

2024年02月18日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 アメリカの大富豪であるニコラス・バーグルエンの財団は、美術コレクションや文化財保護その他の多彩な活動をしていますが、そのうちのバーグルエン研究所は、政治・社会面の対立が続く21世紀の状況の改善に役立つような新たな哲学を摸索しており、哲学におけるノーベル賞となるべくバーグルエン哲学・文化賞を創設し、毎年、「人間の自己理解の形成と進歩」に貢献した思想家に授賞しています。

 評論家の柄谷行人がアジア人初の受賞者に選ばれ、2023年4月に表彰されて賞金100万ドルを得たことで話題になりましたね。

 このバーグルエン研究所は、東西交流による思想の発展をめざしているため、中国の大学などに拠点を置いて大がかりなシンポジウムを開催し、論文集を刊行しています。このところ力を入れているテーマが「共生」の問題です。

 その研究活動の一環として、昨年12月に中国の北京大学で「共生」シンポジウムを開催する予定でしたが、いろいろな事情があって延期になり、この3月に日本の東京大学で開催されることになりました。

 中国では北京大学・清華大学・中山大学、韓国では延世大学、日本では東大、ドイツではハンブルグ大学、フランスはパリ大学などが拠点となっているようです。

 今回は私も発表することになったのですが、不思議なことに、私は日本側からの推薦でなく、中国の中山大学の推薦である由。中山大学は講演に行く予定であったものの、コロナ禍で延期になったままですので、妙な形になりました。

 それはともかく、「共生」をテーマとして東西諸国の研究者が発表するわけですが、暫定プログラムを見ると、儒教や道教では「共生」をどのように説いてきたかとか、西洋の自然主義をのりこえる「共生」の思想、といった内容が多いようです。

 私は「仏教における共生」とか「仏教から見た共生」について語ることを期待されているのかもしれませんが、これは一種のブームであり、それを仏教の立場で理論づけて持ち上げるというのは時代のお先棒担ぎとなる恐れがあります。

 そこで、「Understanding the Limits of the Symbiosis(共生の限界をわきまえる)」という題を提出してあり、敢えて「共生」の問題点を指摘する予定です。それなのに初日の第一セッションで最初に語ることになっており、やりにくいところです。

 「共生」は日本では浄土宗の椎尾弁匡(1876-1971)が、労使の対立、大都市と貧しい農村の格差、女権拡張などの問題が目立つようになった1920年代ころ提唱したもので、死後に浄土に共に往生する「共生(ぐうしょう)」ではなく、この世での様々な立場の人や自然との「ともいき」をめざすべきだと説いていました。

 社会対立が激しかった時代に時代に、融和と共存を説いた点は意義があります。ただ、椎尾は真面目で善意に満ちた人物であったものの、その「ともいき」は日本の素晴らしい国体に支えられて可能となると考えていたため、日本のナショナリズムが強まるにつれて、完全な国体讃美の国家主義となっていきました。

 当然ながら、「和」を説く「憲法十七条」が重視されます。ただ、第二条の「篤敬三宝」の「三宝」は、仏宝・法宝・僧宝であって、仏宝は仏、法宝は仏の教え、つまり経典、僧宝は僧伽(サンガ=僧団)ですが、椎尾は、「憲法十七条」が篤く敬えととしている「三宝」とは、具体的な仏像や経典や僧団などではなく、真の「三宝」、根源的な真理としての一体三宝だと主張します。

 そのうえ、椎尾は法然が打ち立てた浄土宗の僧侶としては、西方浄土におられる報身としての阿弥陀如来に帰依すべきところでありながら、仏とは宇宙に遍満して働きかける真理、生命としての如来だとし(大乗仏教の法身の思想と生命主義を合わせた感じですね)、和合した修行者の団体である僧宝とは共存する国民にほかならない、としてこれらの一体、実現を説くのです。

 日本では、どの時代にあっても聖徳太子の「憲法十七条」が利用されるのですが、椎尾の共生運動においても、このことは同様でした。椎尾は、「憲法十七条」がそうした一体三宝を説いていると主張したのです。

 聖徳太子の『勝鬘経義疏』(こちら)は確かに一体三宝を説いていますが、「憲法十七条」は合議で重要な政策を決定する群臣たちやその下の役職担当者クラス、しかも仏教を良く知らない者たちに対する現実的な訓戒であるため、大乗仏教の難解な教理である一体三宝など説くはずはありません。

 共生はむろん重要なことですが、現実には難しい問題です。大事なことは、まず史実と現実をはっきり認識することでしょう。仏教が既に「共生」を説いていたと主張する人は、異なる宗教の共存を含めた「共生」をめざしておりながら、実際には、仏教は「共生」を説かない他の宗教よりすぐれている(=他の宗教は劣った存在だ)」と主張していることになりかねません。

 セイロン(スリランカ)で仏教を復興してイギリス統治から独立しようとして運動したアナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)は、カースト制を基本とするヒンドゥー教を批判し、仏教はカースト制を認めない平等な宗教であり、セイロンの本来の民族である我々シンハラ族は、その平等な仏教を説いた釈尊と同じ高貴な一族なのだと主張しました。

 根本的には、多数派であった仏教徒主体のシンハラ族と南インドから移住してきたヒンドゥー教徒主体のタミル族を対立させ、分割統治しようとしたイギリスが悪いのですが、ダルマパーラの運動は、シンハラ族とタミル族の対立を激化させ、激烈な武力衝突をまきおこす一因となってしまいました。

 カースト制による身分差別をしない平等な仏教を奉じる「高貴な一族」という主張は、相手を「卑しい民族」とみなすことであり、自己矛盾です。出家して僧団に入れば、カースト、身分の高下、年齢などはいっさい無視され、僧団に入った順序にもとづいて席次順が決まるインド仏教が、現代の「共生」の思想と一部共通する性格を持っていることは事実ですが、それはあくまでも僧団内部でのことです。

 仏教に基づき、「和」を重視する「憲法十七条」は既に「共生」を説いていた、などと理屈づけて共生を持ち上げる人は、時代が変わって別なものが流行すると、簡単にそちらを礼賛して仏教や「共生」を理屈づけることでしょう。「憲法十七条」の「和」は、争いがちであった有力な氏族やその下で働く役職担当者に対して命じられたものであり、国民全体の目標とせよと説いたわけではありませんし。

 「憲法十七条」から現代に生かせる教訓を引き出すのは良いですが、それぞれの時代に必要とされることが「憲法十七条」に既に書かれているとするのは、強引な読み込みです。

 昭和12年(1937)に椎尾が名古屋でおこなった講演「鑚仰聖徳太子」(名古屋仏教青年連盟出版部)は「序説」に続くのが「国体について」と題する章になっており、「国体の尊厳と宗教」「国体明徴の意味」「承詔必謹」「太子精神の再認識」などの節が並んでおり、「太子精神」とは「国体明徴」だと断言されていました。

 これは当時の政府のプロバガンダそのままですし、そうした戦前のあり方を良しとする現代の国体論者が説いている「憲法十七条」論と同じ発想ですね(こちら)。天の神の詔勅を受けた天孫によって肇国され、万世一系であって世界に誇るべき「国体」という概念が固まったのは、近世末期から明治時代にかけてのことです。

 「憲法十七条」は「天皇」という言葉を用いておらず、「神」には一度も触れません。太子の時代は有力氏族が合議で次の天皇を決めていた時代、それも直系相続がまだ確立されていなかった時代であって、仏教によって国造りをしていこうとしていた時代です。

 国民のことを思う善意によるとはいえ、椎尾は近世・近代のナショナリズムが生んだ国体論を古代の「憲法十七条」中に読み込んだのです。となれば、こうした人は戦後になって時代思潮が変われば、民主主義こそが「共生」だと説くようになることは推測がつくでしょう。まさにこれは、聖徳太子観の変遷過程そのものです。

 現在、総務省は「多文化共生プラン」を推進しています。これはこれで重要な試みですが、「憲法十七条」がその運動の中で利用されるとしたら、我々は警戒した方が良いでしょう。

【追記:2024年3月3日】
プログラムが公開されましたが(こちら)、東大の学内者限定で事前申し込みが必要である由。なお、バーグルエン氏も登場して冒頭で短いスピーチをされるとか。

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