最近目立つのは考古学の成果です。歴史学の方では、以前は政治や経済面重視で、権力闘争とか外交とか法令とか莊園経営などが中心でしたが、最近は考古学と手を組んで発展してきている分野が増えており、その一つが都城の研究です。
しかも、アジア諸国の都城と比較検討するのが常識となってきており、日本のことだけ調べて考える時代は終わっています。その最新の成果が、1月に刊行されたこの論文集です。その冒頭に置かれ、全体の序論となっているのが、編者による次の論文です。
網伸也「古代日本の王宮空間と仏教受容-「仏都」形成の前提をさぐる-」
(網伸也編『東アジア都城と宗教空間』第一章、京都大学学術出版会、2024年)
大判で450ページもあり、手にとるとずしっと重いです。網伸也氏については、このブログでも四天王寺関係その他で何度か取り上げてます。
網氏は、推古朝の仏教興隆については蘇我氏の役割が強調されがちだが、飛鳥寺建立を含め、推古天皇の意志が反映されているはずであり、すべて蘇我氏主導と見ることはできないと説いて論を始めます。妥当な見解ですね。
網氏はまず、欽明天皇に仏教受容を認められた蘇我稻目が仏像を安置する寺を設けたのは、自らの拠点であった飛鳥周辺であり、王宮とは隔離された地であったことに注意します。ここは、それまでの王権が三輪山を神聖視してそのふもとのに宮を設置した磯城や磐余などから離れているものの、阿倍山田道でつながっている土地です。
そのような地に位置していた稻目の家を壊して建てられた捨宅寺院である向原の寺は、疫病の原因とされて焼かれますが、網氏は、敏達6年に百済から大別王が帰朝する際、百済王が経論若干巻とともに律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を添えさせたため、大別王は難波の寺に安置したとされていることに注意し、この時期には、僧たちは磐余などの王宮空間どころか、蘇我氏の拠点にも入れなかったのかもしれないと述べます。
そして、守屋が滅ぼされた後、王宮が初めて三輪山近辺から離れ、蘇我氏の本拠地であった飛鳥に移ったことに注目します。蘇我系である炊屋姫は、即位する前の炊屋姫の宮があった飛鳥の豊浦宮で即位して推古天皇となるのであって、その近くに日本初の本格寺院である飛鳥寺が蘇我氏によって造営されたのです。
高句麗にしても百済にしても、仏教を受容した際は王宮の近くに寺院を構えています。しかし、倭国では推古以前はそうではなかったのです。
網氏は、飛鳥寺は蘇我氏が造営を担当したとはいえ、仏教は百済王から倭国に送られたものであり、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺というより国家的寺院の性格が強かったと述べます。これも妥当ですね。
ただ、後に豊浦寺に改められる豊浦宮は、ほぼ正方位で造営された飛鳥寺と違い、西に30度ほど振っており、王宮と寺が一体のものとして平行して建てられていないため、王宮と中心寺院の関係性はまだ強くないとします。
また、飛鳥寺は百済の工人たちによって造営されますが、その一塔三金堂の配置は百済直系とは言えず、また当時は高句麗も僧侶を送り込んできているうえ、飛鳥寺の仏像建建立に際しては、高句麗王が黄金300両を送ってきているため、百済の技術に基づいて造られたものの、まったく百済そのままの受容にはしなかった可能性があると見ます。
推古朝を大きく変えるのは、開皇20年(600)の遣隋使ですが、網氏は、飛鳥寺の伽藍造営がほぼ一段落したことを踏まえて対外交渉に乗り出したものと見ます。その遣隋使が隋の文帝に野蛮さを叱られるという事件を受け、すぐ新たな宮都計画が立てられ、小墾田宮が造られ、豊浦宮については馬子が豊浦寺に改変しますが、網氏はここでも寺である飛鳥寺に対応する尼寺であって国家的性格が強かったことを推定します。
しかも、外交の場となった小墾田宮は、飛鳥寺と同方位で建てられていて宮と寺の関係が深まっているのです。なお、宮のすぐ側に小墾田寺が造営されたことについては、推古天皇の死が契機となり、小墾田宮付属寺院として建立された大后寺だと見る吉川真司氏の説を評価します。
小墾田寺がどの遺跡なのかについては諸説がありますが、この付近で出土した瓦について、網氏は奥山廃寺に先行する宮付属の仏教施設の可能性もあり、推古朝末には宮内に仏堂のような建物が建てられたのであれば、孝徳朝に先だって王宮内で仏教儀礼が行われていた可能性があると見ます。
ただ、国家の寺の性格を持っていたとはいえ、飛鳥寺はあくまでも天皇家の外戚として力を持っていた蘇我氏が造営した寺であり、この矛盾を解消しようとしたのが、舒明天皇による百済大宮に並ぶ百済大寺の造営であったとします。
その百済大寺の瓦には、斑鳩宮横の斑鳩寺で用いられた唐草文の瓦笵がそのまま用いられており、宮と寺が平行して建てられた斑鳩のあり方を継承した形跡が見られる、と網氏は説きます。これを見ても、斑鳩は、王宮と壮大な寺が近くに営まれた飛鳥をより整った形にしようとたことが分かりますね。
厩戸王は都から遠く離れた地に宮を設け、また推古朝の末には49もあった寺のうちの一つを建てた有力皇族にすぎないと主張した「いなかった」説は、斑鳩の意義を小さく見ようとした史実無視の矮小化キャンペーンにすぎません。
さて、孝徳天皇が難波に遷都すると、大王家の勅願寺ではないものの、聖徳太子によって造営された四天王寺が官寺として整備されます。網氏は、百済大寺の創建瓦が、2種ともこの時期の四天王寺の伽藍整備に用いられたことに注意します。
創建時の四天王寺の瓦は、斑鳩寺の瓦を造った瓦当笵が痛んだもので作成されましたし、難波遷都後の四天王寺整備にあたっては、初の王室寺院である百済大寺の創建瓦が用いられたのですから、飛鳥の王権が外交の拠点、内陸の水運の要であった難波をいかに重視していたかが分かりますね。
また網氏は、難波の長柄豊崎宮において、初めて内裏で仏教儀礼が行われたことに注意し、王権と仏教の関係がより深まったことを指摘します。
ただ、小墾田宮は、難波遷都後も大王系の重要な宮として維持されており、斉明天皇が難波から飛鳥に戻って飛鳥板葺宮で重祚したにもかかわらず、小墾田宮を瓦葺きに改装しようとしたのは、王宮と官寺を柱とする宮都をより見栄えの良いものに変えたかったためと推測します。つまり、推古朝の宮は本格寺院と連動していたのです。
網氏は最後に、朝鮮諸国では、仏教を受容した際は王都に寺院を造営している一方、倭国では本格寺院の場所に都が移るという特異な経緯をたどったことに注意し、いずれにしても、この時期の国家の改革は王宮と寺院の密接な結びつきを柱としていたことを強調しています。そして、小墾田宮が以後も8世紀半ばに至るまで維持され、諸天皇が行幸しているのは、日本の都城の基盤となった「仏都」の記憶が残っていたためではないか、と説いてしめくくっています。
なお、網氏は触れていませんが、平城京に遷都する際は、藤原氏は氏寺である厩坂寺を平城京の極めて良い場所に移転して興福寺とすることとし、平城京の造営と興福寺の造営を平行して進めていったことが想起されますね。