聖徳太子研究の最前線

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マヘツキミの合議に外から関与した推古朝の世襲制大臣の行方:鈴木明子「律令制形成期における合議制の展開」

2024年05月19日 | 論文・研究書紹介

 クラウタウさんの新刊書、岡田さんの論文に続き、私の研究仲間の論文が出ています。これまで、旧姓での論文を含め、その着実な研究成果をこれまでも紹介してきましたが(こちら、旧姓の宮地明子での論文はこちらこちら)、今回は、推古朝の合議体制から律令形成期の合議体制への移行について論じた論文、

鈴木明子「律令制形成期における合制の展開」
(『寧楽史苑』第69号、2024年2月)

です。

 この論文では、孝徳朝から天武朝頃のあり方が詳細に検討されていますが、ここは聖徳太子ブログですので、申し訳ないことながら、そうした時代との対比のために推古朝について補足説明している箇所を中心に見ていきます。

 鈴木さんは、貞観16年(642)成立とされる「括地志」(『翰苑』所引)が、倭国には十二等の官があり、その第一は「麻卑兜吉寐(マヘツキミ)」であって、漢語では「大徳」という、と記しているしているのは、それほど有名であった証拠と述べます。

 そして、前稿では、倭国の重要方針は大夫(マヘツキミ)たちの合議で決定されており、推古朝においては、蘇我本宗家による世襲大臣制は冠位制を超越する地位であったため、大臣は合議を主催するものの発言はせず、合議体の外から関与したと論じ、合議での決定は大夫による全会一致が原則だったとしていました。

 大王への奏宣は大夫の職掌であって、大臣はおこなっておらず、また外交面では世襲大臣が主導性を発揮していたと鈴木さんは説きます。推古18年(610)10月丁酉条の新羅および任那の使者の来朝記事では、使者が使いの旨を「四大夫」に奏し、それを「四大夫」が大臣に啓しています。

 また推古31年(623)是歳条によれば、新羅征討の群臣会議では不征討・遣使の方向で決着しておりながら、同年、新羅征討が強行されており、同年11月条では征討を主導したのは大臣であったと記されています。

 また、大夫の冠位が大小の徳冠とほぼ同格であるため、大夫の合議は氏族代表による資属間の利害調整の場としての氏族合議体の性格を色濃く残していたものの、大夫層については王権のもとに掌握されることになったとします。
 
 乙巳の変によって蘇我本宗家が亡びると、大化3年(647)に七色十三冠位が設けられ、大臣の紫冠のみならず、皇親も冠位のうちに包摂されました。また、最下位として建武の位を新設し、実務担当の百八十部に与えたため、官位制は朝廷の構成員すべてを含むことになりました。
 
 ただ、阿倍内麻呂が左大臣となり、右大臣となった蘇我氏代表の倉山田石川麻呂の上に立ったことは、群臣の上に位置した世襲大臣を否定したことになるものの、古い冠を廃止した大化4年(648)になっても左右の大臣だけは「古冠」を着したことは、大臣は群臣の上にあるという認識が保持されていたものと見ます。

 さて、推古朝までの合議では、合議内容は主に皇位継承と外交(対外戦争と仏教受容の可否)であって、これが「大事」でした。しかし、皇位継承については、大化改新により皇極が孝徳に譲位した結果、王権の自立的な継承が始まったとされます。

 この後の時期については、『日本書紀』では天皇が大夫に皇嗣選定について諮問したとする記事がありますが、名があがっているのは当時の議政官すべてではなく、また議政官でない者の名も見えているため、臨時的なものであったとします。見解を統一する合議は、内裏とは別の場でなされたのです。

 以後、中大兄皇太子が庶務を委ねられた斉明朝から天武朝に至る合議について検討されていますが、壬申の乱時に、大友皇子が群臣に諮問した例と、近江朝では左右の大臣と群臣が共に「議を定め」たと天武天皇が高市皇子に語ったという箇所を除けば、合議がおこなわれたことを示す資料はないとします。

 つまり、合議を重視しつつ、その外から関与した世襲大臣の見解が優先された推古朝は、群臣合議と世襲大臣の二元的な権力構造となっていたのであって、乙巳の変以後は、王権による自立的な皇嗣選定へと移り、世襲大臣制に代わって置かれた左右の大臣も冠位制度の中にとりこまれ、天武朝になると大臣も置かなくなって合議制そのものが解消されるようになった、というのが鈴木さんの見通しです。