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古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」

2024年04月22日 | 論文・研究書紹介

 前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。

官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」
(『国際日本文化研究センター紀要』28号、2004年1月)

です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。

 官氏は、冒頭で「日本古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。

 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。

 中国では、夏の時代に「父子相承」の形での直系相続が既に確立していたものの、後継ぎの子が幼い場合など、王の弟らが争って王族内に殺し合うことが多かったため、殷の時代には一時期ながら兄弟継承という形態がとられました。ただ、この混乱を避けるため、周の時代に嫡長男が王位を継承する制度が確立され、以後、これが中国の伝統となりました。

 これは兄弟姉妹が王位を継承した古代日本と違うところです。官氏は、日本の学者の一部が姉妹による継承を「中継ぎ」とみなしていることに反対します。直系相続が伝統になっていない状況では、直系相続をおこなうための臨時の中継ぎという形はありえないからです。

 女性の天皇たちについては諸説がおこなわれており、亡くなった天皇の皇后が即位することもあったものの、官氏は、皇族の女性という資格だけで即位している例もあることに注意し、当時にあっては、王位の継承者は成人(30才以上)でなければならないとする習慣の存在が大きかったと見ます。

 中国でも兄弟継承はおこなわれていましたが、これは「父子相承」の習慣が確立した後のことであり、王の子が幼いために王の弟が即位した場合、弟は自分の子を次の王にすることもありましたが、それは利己的な行為とされ、非難されたため、継承制度の主流にはならなかったと官氏は説きます。

 王の弟が即位しても、亡き王の子が成人したり、戦争などが終わって政治が安定したら、王位を前王の子に譲るのがあるべき姿とされたのです。

 一方、日本では30才以上でないと王位につけなかったうえ、譲位の習慣が無かったのですから、「中継ぎ」はありえないことになります。女性の身で即位して初めて譲位した皇極天皇は、軽皇子(孝徳天皇)に王位を譲ったわけですが、軽皇子は自分の子ではなく、前の天皇の子でもなく、自分の弟ですので兄弟姉妹継承であって、「中継ぎ」とも言えないことになります。

 しかも、古代日本の王位継承者は、有力な豪族たちの合意によって決定されていました。「皇太子」の制度は律令制からとはいえ、王を補佐し、その後継候補となる皇族はいたでしょうが、欽明天皇の嫡子であって「皇太子」となったとされる敏達天皇が亡くなり、その異母妹であった皇后の推古が天皇となると、推古は敏達と自分の間に生まれた皇子ではなく、自分の兄である用明天皇の子を「皇太子」としているのです。

 官氏は、『日本書紀』が「皇太子」としている皇族が必ずしも即位していないことに注意し、持統朝までの立太子は皇位継承者という位置づけより、天皇の補佐役となってある場合は天皇に代わって国政に参与する立場であったとする村井邦彦氏の説を紹介して賛同し、ヒツギノミコは一人とは限らなかったとする説もあることに注意します。

 そして7世紀にあっては、天皇を中心とする単位家族は成立していないため、直系相続もなかったのであって、これが変化するのは持統・元明朝からとします。持統天皇は在位中の11年(697)の春に15才だった軽皇子を太子に立て、同年8月に譲位して文武天皇とします。歴史上初の未成年の天皇の誕生です。

 しかし、文武天皇が25才で亡くなり、文武と不比等の娘の宮子の間に生まれた首皇子は僅か7才であって、天智の娘、持統の妹、草壁皇子の妃、文武の母である言天皇が即位し、首皇子が14才になった段階で皇太子としたものの、まだ幼いという理由で、自分と草壁の間の娘であって文武天皇の姉であった元正に譲位します。男子の直系相続はなされていません。

 いずれの国においても、王位の継承法はその国の血縁集団の特質と結びついており、中国の法令制度が日本に伝わっても、日本の血縁集団の構造自体は変わらないのです。持統天皇以後も、直系、あるいは嫡子相続はなされておらず、中国と違って女性たちが何人も皇位についているのです(女性を認めない儒教社会である中国において、皇位についたのは、仏教を利用して弥勒の化身と称して即位した則天武后ただ一人ですね)。

 官氏は、推古と持統は「優れた政治的能力を持った女帝」だったと評価します。お飾りでも中継ぎでもなかったのです。しかも、皇位継承をめぐる争いの中で多くの皇子たちが殺されたにもかかわらず、推古から元正に至るまでの六人、八代、計86年の間、女帝に反対して争いが起きたことはなかったと、官氏は指摘します。これは重要ですね。

 官氏は、当時は特定の天皇の単位家族は成立しておらず、近い皇族であれば男女の誰もが王位継承の資格があるとされ、皇后になっていなくても皇女であれば即位できたとし、だからこそ皇族内での極端な近親結婚が行われたのだと結論づけています。

 こうして見ると、「女帝中継ぎ論」は、儒教的な考えが広まった近世以後、明治以後の発想だったことが良くわかりますね。その国の特徴を知るには、やはり他の国と比較しなければならないということです。なお、私の『東アジア仏教史』(岩波新書)は、諸国の仏教の比較だけでなく、相互交流・相互影響という点に重点を置いて書いてあります。

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