聖徳太子研究の最前線

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片岡山飢人伝説は『日本書紀』編者の創作ではない:三舟隆之「片岡山飢者説話の形成」

2024年05月06日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子虚構説については賛同者はおらず、この10年以上は相手にされなくなっていて批判すらされていない、とこのブログで何度か書きましたが、最近になって批判している珍しい例が、

三舟隆之『片岡山飢者説話の形成:日本書紀』『日本霊異記』『万葉集』から―」
(小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

です。

 三舟氏は、片岡山飢者説話に対する戦前からの諸説をざっと紹介した後、大山誠一氏の聖徳太子非実在説(厩戸王実在説)では聖徳太子関連の資料を片っ端から否定しており、中でも『日本書紀』の片岡山飢者の記事はフィクション性が高いとされ、道教好きの長屋王が創作したものとして簡単に扱われていると述べます。

 そして、非実在論について詳しく検討はしないが、この説に全く触れずに片岡山飢者説話について述べることはできないため、自分の見解を示すとして、聖徳太子という名は後代のものであるにせよ、経済力と政治面から見てその尊称にふさわしい人物であったとします。

 そして、石井公成が指摘するように、非実在論は考古学や美術史の成果を考慮しておらず、問題が多いと述べます(言及、有難うございます)。拙著をあげてくださったのは有り難いですが、だったら、大山氏が本名だとして強調する「厩戸王」は、戦後になって仮に想定された名であることにも触れておいてほしかったところです。

 それはともかく、三舟氏は『日本書紀』、『日本霊異記』、『万葉集』の片岡山飢者説話を比較することから始めます。

 720年成立の『日本書紀』では、聖徳太子が片岡山に遊行した際、道ばたで臥せっている飢者に出逢ったため飲食を与え、自らの服を脱いで着せ、飢者を憐れむ「しなてる片岡山~」の歌を詠み、翌日、見に行かせると死んでいたため墓に埋葬させ、後日、「真人」だろうとして使者に調べに行かせると、死骸はなく、衣服のみが棺の上に置いてあったため、太子はその衣を取り寄せて着たため、世人は「聖人は聖人を知るというのは本当だ」と感嘆した、となっています。

 奈良朝末期から平安初にかけて編纂された『日本霊異記』では、片岡の路で乞食が病気となって臥せていた。太子はともに語り、着ていた衣を脱いで病人に覆い、戻ってくると、その衣は木の枝にかけられていて乞食はいなかったため、太子は周囲が卑しい人が着て汚れていると反対したのに衣を身につけた。乞食はほかの場所で死んでいたため、法林寺の東北の山に墓を作らせ、後に使いを派遣すると、墓の入り口は開いていないのに埋葬者はいなくなっており、「鵤の富の小川の~」の歌が戸に立てかけてあったため、太子は黙然とした。誠に聖人は聖人を知り、凡人の目には見えないものだ、としめくくられています。

 8世紀中頃に編纂された『万葉集』では、上宮聖徳皇子が竹原の井に出遊した際、龍田山の死人を見て悲傷して詠んだ歌は、「家ならば妹が手まかむ草まくら旅に臥やせるこの旅人あはれ」、となっています。

 飢者の「富の小川」の歌と、憐れんだ太子の「しなてる片岡山」の歌を並べるのは、中西進が指摘したように、太子に仕えた調使・膳臣家の記録に基づくと称して神秘的な伝承を並べたてた平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』が最初です。

 それ以前に成立したと推測される『上宮聖徳法王帝説』には飢者説話は収録されておらず、巨勢三杖が太子の死を悼んで詠んだ歌の中に「富の小川」の歌が見られるため、初期の法隆寺系の史料には飢者説話はなかったと思われると三舟氏は説きます。

 上記の比較が示すように、『日本書紀』と『日本霊異記』と『万葉集』は場所や登場人物や歌などが異なっており、『日本書紀』の編者が創作した逸話が広まるうちに詳しくなっていったようには見えません。

 そこで、三舟氏は片岡の地について検討します。

 まず片岡廃寺(片岡王寺跡)は、明治まで土壇が残っていて四天王寺式伽藍配置であったことが分かっており、出土する瓦から見て7世紀前半の建立があることが明らかになっています。

 西安寺跡も四天王寺式であって、若草伽藍と同笵の瓦も出ており、7世紀前半造営の可能性がある寺です。

 尼寺廃寺のうち、巨大な心礎が発見されている北廃寺は、東面する法隆寺式伽藍配置をとっており、創建期の軒丸瓦は最初期の坂田寺と同笵であって、以後、四天王寺と同笵の素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式の複弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、7世紀前半の建立で、7世紀後半に川原寺式の瓦を用いて整備されたようです。

 南廃寺は、調査不十分で伽藍配置などは不明であるものの、若草伽藍と同笵の瓦が出ているため、北廃寺と同様に7世紀前半の建立の可能性があります。

 これらの寺の檀越については諸説ありますが、『法隆寺伽藍縁起并資材帳』によれば、「片岡僧寺」と見えており、瓦などから見て、上宮王家と関係が深かったことは明らかだとします。

 ここで三舟氏が注目するのが、飛鳥池遺跡北地区から出土した木簡に、「五月廿八日飢者賜大俵一/道性/六月七日飢者下俵二/受者道性女人賜一俵……」とあることです。内容から見て、天武5年(676)から翌年にかけての飢饉の際の対策のようであって、飢者や女人に食料を配給しているのですが、それを取り次いだのが道性という名の僧侶らしいことです。

 つまり、僧侶が困窮した人々に対する支援活動にあたっていたのです。三舟氏は、厩戸王や法隆寺などの僧侶もこうした活動に携わっていたものと見て、以下のような説話の進展を想定します。

 まず、7世紀前半に片岡・竜田あたりでこの説話の元となる説話が成立し、それに尸解仙説話が加わって8世紀前半頃に『日本書紀』の説話となり、加わっていない形が『万葉集』の説話となり、『日本書紀』の説話がさらに巨勢三杖の挽歌を加えて8世紀後半に『日本霊異記』の説話へと成長し、さらに9世紀前半に『日本書紀』と『日本霊異記』の説話に、「調使家記」を加えて『上宮聖徳太子伝補闕記』の説話となって定着していった、という流れです。

 聖徳太子の生前の段階でこの説話が形成されていたかどうかは分かりませんが、四天王寺が後に悲田院などの福祉事業を始めていることから見ても、聖徳太子の仏教受容が貧民支援の活動を含んでいたことはありうることです。中国でも、寺院はそうした活動をしていました。

 その結果、聖徳太子没後になって関連の寺がそうした活動をする際、元祖として太子の逸話を強調したことはありうることでしょう。三舟氏は、太子関連の伝承は後代作成のものが多いことを認めたうえで、そうした伝承の背景について考えていくことが必要だとしており、これは納得できる意見です。