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中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」

2024年05月01日 | 論文・研究書紹介

 中国の中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、

川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」
(北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年)

です。日本・中国・韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、この本は書名が示すように、日本と中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川本氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。

 川本氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事ですね。聖徳太子関係を含め、トンデモ説や闇雲な日本礼賛主張者は、様々な史料をきちんと読まず、自説に有利な箇所だけを切り貼りして妄想をくりひろげるタイプばかりですので、文献派の海外の研究者からは相手にされません。

 さて、『宋書』倭国伝に見える478年の倭王武の上表文では、宋の順帝に対して自らを「臣」と称していましたが、埼玉県の稲荷山古墳から辛亥年(471)の年紀を有する鉄剣の銘文には、「治天下大王」とありました。つまり、倭国王は、「天下」を統治する皇帝を自認していた順帝に対しては「臣」と称しているものの、それより早い段階で、国内に対しては「治天下大王」と称していたのです。

 これはダブルスタンダードですが、こうした姿勢は、実は多くの国に見られるものでした。たとえば、高句麗では、漢の支配拠点であった楽浪を313年に陥落させて勢力を伸ばした結果、高句麗王は「好太王碑」が示すように、中国周辺国の「~王」との違いを示すため、「太王」の称号を用いるようになり、独自の年号まで使い始めます。

 「好太王碑」では、高句麗の由来について述べた部分では、鄒牟王は「天帝の子」であるとし、「我は是れ皇天の子」という言葉を記しています。これを漢文表記したら「天子」ですね。さらに好太王の子の長寿王時代の地方官であた牟頭婁という人物の墓誌には、「天下四方」の語も見えています。つまり、天下を統治する中国の皇帝のように、高句麗王が自分なりの「天下四方」を治めるとされていたのです。

 こうした中華意識は、やや遅れて百済や新羅にも見られるようになり、倭国もそれに続きます。さらに後に、ベトナムも同じことをやり、中国に対しては朝貢して「王」と名乗り、周辺国に対しては「皇帝」と称します。

 面白いことは、そうした傾向が中国でも見られることです。北方遊牧民族である鮮卑族が中国の山東地域に建国した南燕の王であった慕容鎮は、自分たちを「中華」と呼び、南地の漢族の王朝である東晋のことを、全身に入れ墨をして海に潜るような「南蛮」の国家とみなしていました。

 こうした意識が、遊牧民族が建国した北朝の多くの国に受け継がれました。当然ながら、南朝の国家は自分たちこそが天下を治める正統な皇帝の国であるとし、北方の国家を蕃族の国家とみなしていました。その北地の国家の一つが勢力を伸ばし、中国全土を統一したのが隋であり、その皇帝の親族が打ち立てたのが唐であったのです。

 その隋に対し、長らく南朝に「臣」として接して将軍の号をもらっていた倭国が、開皇20年(600)に久しぶりに使節を派遣します。隋の文帝が役人に命じてその使節に倭国の風俗を尋ねさせると、使節は「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天がまだ明けざる時に出て政を聞き、跏趺坐す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と答えたと、『隋書』倭国伝にあることは有名です。

 この説明を聞いた文帝が「はなはだ義理無し」と呆れ、改めるよう訓令したと記されているのは当然でしょう。その結果、大業3年(607)に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という国書が送られるようになったわけです。

 この国書について、川本氏は、「日」は中国では皇帝そのものを指しているため、それを弟扱いしているということになるとしていますが、いくら何でも、倭国が意図的に隋を弟扱いしたとは考えられません。

 私は、「天の日を兄弟としている」といった和語を、中国側が文飾して「以天為兄、以日為弟」と対句にしたのではないかと疑っていることは、拙著で書きました。

 川本氏は、次の派遣使節が提出した国書の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の文は、いかに不遜に見えようとも、「天の弟」「日の兄」などと言っておらず、訓令に従って改めたと見ています。

 これを見た煬帝は不快になったものの、身分の低い裴世清を使いとして送って宣諭させたため、川本氏は、倭国は「天子」の語は用いず、煬帝を「先輩か兄に見立て」た「東天皇敬白西皇帝」で始まる国書を送ることによって、「一定の常歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いている」とします。

 つまり、こうした状況で「天皇」の語が用いられたのであって、この語はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内でも用いられるようになり、律令において正式な称号として確立したと、川本氏は推測します。

 問題は、『旧唐書』倭国伝が貞観5年(631)のこととする記事です。唐は新州刺史の高表仁を派遣したものの、「綏遠の才無く」、つまり蛮夷を慰撫する才が無く、王子と礼を争い、朝命を宣せずして還る」とあります。「開元礼」では、皇帝の使者が蕃国を訪れた際は、使者は蕃国側の再拝の礼に答えず、皇帝の詔書を宣し、蕃国側は北面して詔書を受け取ることになっていました。

 礼を争ったとある以上、倭国側はそうした形で詔書を受け取ることを認めなかったことになりますが、そうなると、高表仁より官位が低い裴世清の時はどうだったのか、倭国王を拝するなどしたうえで、国書や言葉だけは伝えたのか、ということになります。

 奈良時代になって778年に唐の使者、趙宝英が派遣された際は、趙宝英は遭難し、部下の孫興進が来日したのですが、孫興進とともに帰国した遣唐使の小野滋野は、新羅や渤海など日本が蕃国とみなす諸国からきた国使を迎える際の礼式で対応すべきだと主張したものの、中納言石上宅嗣は、蕃主が中国皇帝の使節を迎える礼で迎えるべきだと主張した由。

 ともかく、中国で南北朝時代が終わる頃になって北朝の勢力が強まっていくと、南朝と連動、ないしその傘下にあった柔然、吐谷渾、雲南の勢力、高句麗、百済などは相次いで亡び、それらの背後にあった突厥、吐蕃、南詔、渤海、新羅、日本などが興隆してきます。

 つまり、北地の夷狄であった五胡の中から登場した北魏が、漢民族の南朝とならぶ「朝」とみなされ、その北朝を承けて隋唐が中国の正統な王朝となるという現象が起きたのであり、これが中国周辺の諸国の興亡はつながっているのです。

 倭国が遣隋使、遣唐使を派遣して国政を変革させ、白村江の敗北を経て古代律令制国家を築いていったのは、東夷であった倭国が周辺に対して中華として振る舞うようになった動きと連動しているのです。その日本の変化は、単なる国内問題、あるいは朝鮮半島の動きとの関係といった視点ではなく、中国を中心とした「天下」の動きの中でのことであった点に注意すべきだ、というのが川本氏の結論です。