教科書では聖徳太子の扱いが変化してきました。このブログでも、明治以来の変化については、何度か触れました(こちらや、こちら)。
また、最近の教科書では聖徳太子の影が薄くなりつつあるため、そうした変化を紹介するのは当然ですが、学界ではこの10年以上まったく相手にされなくなった20年前の大山誠一氏の聖徳太子虚構説を最新の有力な学説として評価し、著書その他でこの大山説が教科書の変化の理由と説いてきた河合敦氏の問題点についても、以前、指摘しました(こちら)。このタイプの書き手は他にも多いですね。
そこで、今回は、教科書を審査している文科省の担当者とその経験者である研究者の近年の書物を紹介しましょう。
高橋秀樹・三谷芳幸・村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』
(吉川弘文館、2016年)
です。高橋氏は、文科省の初等中等教育局の教科書調査官であって、中世史の研究者。三谷氏は、教科書調査官を経て現在は筑波大学の准教授、古代史の研究者。村瀬氏は、高橋氏と同じ調査官であって、近代史の研究者です(いずれも、同書刊行時のもの)。
同書では、原始時代から平成時代に至るまでが取り上げられており、聖徳太子は「飛鳥時代」の5として、「変容する「聖徳太子」」というタイトルで3頁ちょっと記されています。署名執筆者は、古代史担当の三谷氏です。三谷氏の専門は、CiNii(https://ci.nii.ac.jp/)で検索すれば分かります.
三谷氏は、没後の呼び方である「聖徳太子」とともに実名と考えられる「厩戸皇子(うまやとのみこ)」を併記するのが一般的な傾向としたうえで、推古朝には「天皇」「皇子」などの語が使われたか不明ということで、「厩戸王(うまやとおう)」と表記する教科書もあると述べ、「聖徳太子」という名は絶対的な地位を占めてはいないと述べます。
穏当な説明ですね。「うまやど」とせず、「と」と清音にしており、そうした点に注意していることが分かります。ただ、「厩戸王」については、「古代の文献には見えない」という点は意識されてないように見えます。
ほかに気になるのは、太子の生前の呼び方はどうであれ(確定できないのが現状ですが)、平安時代以後、現代に至るまで「聖徳太子」と呼ばれて信仰され、日本の思想と文化に大きな影響を与えてきた以上、「聖徳太子」という名を教えないわけにはいかない、ということをどれだけ意識しているか、ということです。鎌倉時代に諸宗の開祖を紹介するのであれば、聖徳太子信仰に触れる必要もあるほど、この時期の太子信仰はすさまじいものでした。神格化が進み、美術、芸能、音楽その他、様々な面で影響を与えています。
併記でも注の形でもかまいませんが、後代にできて親しまれてきた「聖徳太子」を教えないと、歴史教育として不充分になります。空海についても、没後につけられたものとはいえ、人々がそう呼んで親しみ、数々の伝説が生まれた「弘法大師」という号を知っておきたいものです。
また、推古天皇など天皇の漢字諡號は後代に定められたものだということも教えないと、「聖徳太子」だけが後代の呼称で、同時代の他の人たちの名は実名なのだ、と生徒が受け取る可能性があります。
ただ、推古朝の最近の研究動向に関する三谷氏の説明は穏当なものです。氏は、聖徳太子を中心とする見方が変わってきているとして、次のように述べます。
以上です。ごくまっとうな見解ですね。
氏は、かつてのように推古朝を聖徳太子の時代として描くのではなく、「憲法十七条」についても、制定の主体を明示しないか、太子の制定と「される」「伝えられる」と婉曲な書き方をする教科書が多いとします。
また、そうした慎重な態度は、肖像画とされてきた「唐本御影」についても同様となっているとします。また、遣隋使については、「日出処天子」国書で知られ、これまで特筆されてきた607年の派遣だけでなく、『隋書』に見える600年の遣隋使も重視されるようになったのは、この時の派遣が画期的であって、これがきっかけとなって冠位十二階や「憲法十七条」が制定されるなど、国内の制度が整備されたとするためだろうとします。
そして、あらゆる事柄を「超人的な偉人」としての聖徳太子の事績に帰するのではなく、「時代とともに生きた政権の担い手のひとりへ」と、教科書の記述はゆるやかに、かつ確実にかわりつつある、と述べてしめくくっています。
まったくその通りであって、異論ありません。それに比べ、一部の教科書では、現在の研究の評価を考慮せず、できるだけ厩戸皇子に触れずにすませたり、「厩戸王(うまやどおう)」を本名扱いしたり、いろいろな学説があることを教えると称して、大山誠一氏の虚構説を紹介するコラムを載せたりするなど、問題が多いものが目につきます。これに反発し、検証不充分なまま無暗に持ち上げようとする姿勢が目につく教科書も問題ですが。
教科書は限られた人数で執筆しますので、すべての時代や事柄について、自ら研究したり、最新の研究に精通している人が執筆するのは、むろん不可能です。
私自身、岩波新書で『東アジア仏教史』を書いた際は、自分はどれほど僅かな分野しか原文を読んでいないかを痛感させられたことでした。中国の一時期、日本の一宗派だけをとっても、一人で完璧にカバーするのは不可能です。
ですから無理もないのですが、盛んな論争がある事柄で社会の注目をあびそうな事柄については、教科書や歴史書の執筆者はやはり注意して、最新の諸説を調べるべきでしょう。
「聖徳太子 最近の説」で検索すると、ヒットする記事の上位のうちに、「あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ」という2016年5月25日公開のインタビュー記事がありました(こちら)。語っているのは、ロングセラー参考書となっている『大学への日本史』を監修した「歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師」の山岸良二氏です。
山岸氏は、「「厩戸王」は実在の人物です」と述べるだけでなく、「厩戸王」が本名と断言するなど、知識不足が目立ちます。名前以外の点についても同様です。
氏は古代史のいろいろな面について解説しておられますが、CiNiiで検索した限りでは、氏の専門は古墳その他の考古学であり、聖徳太子の時期について書いたものとしては、一般向け雑誌の連載で、古代寺院の遺跡の大きさについて触れた4頁の解説記事があるだけのようです。
聖徳太子は話題になるため、専門的に研究していない人でも、古代の研究者ということで依頼されると、あれこれ語りがちなのですね。こうした例は、聖徳太子に関するムック本の監修者にもよく見られます。
古代史研究者としては有名であるものの、分野違いで聖徳太子研究はしていない研究者が出版社に頼まれて監修し(名前を貸すだけ、あるいは短い概説を担当するだけの場合も有る)、実際は若手の研究者、さらに多くの場合は歴史も手がけるライターたちが短期間で書きあげたものが目立つのです。
こうしたムック本は玉石混淆であるため、そのうち、一般向けでありながら学術的でしっかりしたものと、あまりにもお粗末なものの代表例をいくつか紹介しましょう。
また、最近の教科書では聖徳太子の影が薄くなりつつあるため、そうした変化を紹介するのは当然ですが、学界ではこの10年以上まったく相手にされなくなった20年前の大山誠一氏の聖徳太子虚構説を最新の有力な学説として評価し、著書その他でこの大山説が教科書の変化の理由と説いてきた河合敦氏の問題点についても、以前、指摘しました(こちら)。このタイプの書き手は他にも多いですね。
そこで、今回は、教科書を審査している文科省の担当者とその経験者である研究者の近年の書物を紹介しましょう。
高橋秀樹・三谷芳幸・村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』
(吉川弘文館、2016年)
です。高橋氏は、文科省の初等中等教育局の教科書調査官であって、中世史の研究者。三谷氏は、教科書調査官を経て現在は筑波大学の准教授、古代史の研究者。村瀬氏は、高橋氏と同じ調査官であって、近代史の研究者です(いずれも、同書刊行時のもの)。
同書では、原始時代から平成時代に至るまでが取り上げられており、聖徳太子は「飛鳥時代」の5として、「変容する「聖徳太子」」というタイトルで3頁ちょっと記されています。署名執筆者は、古代史担当の三谷氏です。三谷氏の専門は、CiNii(https://ci.nii.ac.jp/)で検索すれば分かります.
三谷氏は、没後の呼び方である「聖徳太子」とともに実名と考えられる「厩戸皇子(うまやとのみこ)」を併記するのが一般的な傾向としたうえで、推古朝には「天皇」「皇子」などの語が使われたか不明ということで、「厩戸王(うまやとおう)」と表記する教科書もあると述べ、「聖徳太子」という名は絶対的な地位を占めてはいないと述べます。
穏当な説明ですね。「うまやど」とせず、「と」と清音にしており、そうした点に注意していることが分かります。ただ、「厩戸王」については、「古代の文献には見えない」という点は意識されてないように見えます。
ほかに気になるのは、太子の生前の呼び方はどうであれ(確定できないのが現状ですが)、平安時代以後、現代に至るまで「聖徳太子」と呼ばれて信仰され、日本の思想と文化に大きな影響を与えてきた以上、「聖徳太子」という名を教えないわけにはいかない、ということをどれだけ意識しているか、ということです。鎌倉時代に諸宗の開祖を紹介するのであれば、聖徳太子信仰に触れる必要もあるほど、この時期の太子信仰はすさまじいものでした。神格化が進み、美術、芸能、音楽その他、様々な面で影響を与えています。
併記でも注の形でもかまいませんが、後代にできて親しまれてきた「聖徳太子」を教えないと、歴史教育として不充分になります。空海についても、没後につけられたものとはいえ、人々がそう呼んで親しみ、数々の伝説が生まれた「弘法大師」という号を知っておきたいものです。
また、推古天皇など天皇の漢字諡號は後代に定められたものだということも教えないと、「聖徳太子」だけが後代の呼称で、同時代の他の人たちの名は実名なのだ、と生徒が受け取る可能性があります。
ただ、推古朝の最近の研究動向に関する三谷氏の説明は穏当なものです。氏は、聖徳太子を中心とする見方が変わってきているとして、次のように述べます。
大臣である蘇我馬子の発言力がきわめて強かったと考えられている。一方、聖徳太子も王位を継承しうる有力王族として、政権の中枢を担っていたという見解がいまでも有力である。そのため、推古朝の政権を、聖徳太子と蘇我馬子の共同執政とする捉え方が、現在広く受け入れられている。そのうえで、2人に指示を与えるべき立場にある、推古天皇の政治的主体性にも改めて注意が向けられている。(19頁)
以上です。ごくまっとうな見解ですね。
氏は、かつてのように推古朝を聖徳太子の時代として描くのではなく、「憲法十七条」についても、制定の主体を明示しないか、太子の制定と「される」「伝えられる」と婉曲な書き方をする教科書が多いとします。
また、そうした慎重な態度は、肖像画とされてきた「唐本御影」についても同様となっているとします。また、遣隋使については、「日出処天子」国書で知られ、これまで特筆されてきた607年の派遣だけでなく、『隋書』に見える600年の遣隋使も重視されるようになったのは、この時の派遣が画期的であって、これがきっかけとなって冠位十二階や「憲法十七条」が制定されるなど、国内の制度が整備されたとするためだろうとします。
そして、あらゆる事柄を「超人的な偉人」としての聖徳太子の事績に帰するのではなく、「時代とともに生きた政権の担い手のひとりへ」と、教科書の記述はゆるやかに、かつ確実にかわりつつある、と述べてしめくくっています。
まったくその通りであって、異論ありません。それに比べ、一部の教科書では、現在の研究の評価を考慮せず、できるだけ厩戸皇子に触れずにすませたり、「厩戸王(うまやどおう)」を本名扱いしたり、いろいろな学説があることを教えると称して、大山誠一氏の虚構説を紹介するコラムを載せたりするなど、問題が多いものが目につきます。これに反発し、検証不充分なまま無暗に持ち上げようとする姿勢が目につく教科書も問題ですが。
教科書は限られた人数で執筆しますので、すべての時代や事柄について、自ら研究したり、最新の研究に精通している人が執筆するのは、むろん不可能です。
私自身、岩波新書で『東アジア仏教史』を書いた際は、自分はどれほど僅かな分野しか原文を読んでいないかを痛感させられたことでした。中国の一時期、日本の一宗派だけをとっても、一人で完璧にカバーするのは不可能です。
ですから無理もないのですが、盛んな論争がある事柄で社会の注目をあびそうな事柄については、教科書や歴史書の執筆者はやはり注意して、最新の諸説を調べるべきでしょう。
「聖徳太子 最近の説」で検索すると、ヒットする記事の上位のうちに、「あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ」という2016年5月25日公開のインタビュー記事がありました(こちら)。語っているのは、ロングセラー参考書となっている『大学への日本史』を監修した「歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師」の山岸良二氏です。
山岸氏は、「「厩戸王」は実在の人物です」と述べるだけでなく、「厩戸王」が本名と断言するなど、知識不足が目立ちます。名前以外の点についても同様です。
氏は古代史のいろいろな面について解説しておられますが、CiNiiで検索した限りでは、氏の専門は古墳その他の考古学であり、聖徳太子の時期について書いたものとしては、一般向け雑誌の連載で、古代寺院の遺跡の大きさについて触れた4頁の解説記事があるだけのようです。
聖徳太子は話題になるため、専門的に研究していない人でも、古代の研究者ということで依頼されると、あれこれ語りがちなのですね。こうした例は、聖徳太子に関するムック本の監修者にもよく見られます。
古代史研究者としては有名であるものの、分野違いで聖徳太子研究はしていない研究者が出版社に頼まれて監修し(名前を貸すだけ、あるいは短い概説を担当するだけの場合も有る)、実際は若手の研究者、さらに多くの場合は歴史も手がけるライターたちが短期間で書きあげたものが目立つのです。
こうしたムック本は玉石混淆であるため、そのうち、一般向けでありながら学術的でしっかりしたものと、あまりにもお粗末なものの代表例をいくつか紹介しましょう。