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考古学者かつ住職が自分の寺は馬子創建だとして学問的に検討:中村浩『河内龍泉寺と蘇我氏の研究』

2025年05月08日 | 論文・研究書紹介

 タイトル通りの本が今年の2月に刊行されました。

中村浩『河内龍泉寺と蘇我氏の研究』
(芙蓉書房、2025年)

です。中村氏は、大阪大谷大学名誉教授。須恵器の研究などを中心にした考古学者ですが,
蘇我馬子が創建したという伝承を持つ河内龍泉寺の住職でもあるため、大学退職後にこの伝承を検討したのがこの本です。

 富田林市南方の嶽山の中腹に位置する龍泉寺は、『上宮太子拾遺記』に引かれる「元興寺縁起」によれば、「四年丙辰、冬十一月。法興寺造竟。……是年島大臣私起龍泉寺於石川神名傍山、為禅行之院」とあり、推古4年(596)に馬子が「私」に建て始めたとあります。『上宮太子拾遺記』は、橘寺の法空が異説の多さを歎いて14世紀初めに著した太子伝です。

 「私」という点が興味深いですね。これによると、法興寺(飛鳥寺)は国家の為に建てた寺であって、この龍泉寺が馬子が個人的に建てた寺ということになります。

 中村氏は、龍泉寺は河内郡の平石古墳群を望む位置にあるため、古墳群は蘇我氏の墓域だとし、谷の入口付近にあるシシヨツカ古墳は蘇我稻目か馬子のどちらか、あるいはシシヨツカ古墳が稻目でその隣接するシシヨツカ東古墳が馬子墓と推測します。

 『日本書紀』によれば馬子は「桃原」に葬られたとありますが、中村氏は蘇我氏の本拠地であったこの地に再葬されたと見るのです。そしてアカハゲ古墳が入鹿、ツカマリ古墳が蝦夷の墓と推定するのですが、どうでしょうかね。 飛鳥近辺の巨大な墓跡が蝦夷・入鹿墓と推測されてますし(リンク)、飛鳥の石積みの都塚古墳が稻目の墓という説も有力ですからね。

 以下、「仏教伝来の再検討」の章では、伝来を考察するのですが、注や参考文献であげている研究書や論文は1980年頃までのものばかりであり、中村氏が若い時期にまなんだ知識に基づいて書いたか、かなり前に書いた論文をこの書に入れ込んだように見えます。

 この本は、春日大社文書に見える龍泉寺記事の検討、そして現在の龍泉寺の考古学的調査が新情報であるものの、仏教伝来や蘇我氏と物部氏の争いなどに関する部分は、昔の研究に基づいて自分の考えを少し述べた程度に見えます。崇仏抗争の部分にしても、あげられている文献は1987年までのものにすぎません。

 有益なのは、敏達朝以前の朝鮮派遣氏族としては、物部10、吉備8、紀8、大伴4であって、蘇我氏は雄略朝の1のみであり、以後、物部9、河内6、紀4、吉備3、大伴1となっており、百済官人となった者も、物部4、紀2であって、物部氏が優勢であったことを具体的に指摘していることですね。

 また、龍泉寺のこともあってか、蘇我氏の氏寺と称されることもある法興寺について、氏のために造営したのではないと説いている点も適切でしょう。ただ、立ち場上無理ないものの、全般に龍泉寺や河内の意義を強調する傾向がありますね。

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